た。
「日本の諺に――諺だか何だか実は良く知らないのだがね、犬が西向きや尾は東、といふ名言があるぜ。君の美論にどれほどの真理がこもつてゐるか知らないけれど、この寸言はともかく盤石の真理ぢやないか。ところが君は、犬のシッポの先をちよつと西へ向けて、御覧の通り犬のシッポの先は東の方に向いてはゐないと言ひ張るのさ。君の画論の正体なるものは、ざッとかういふ性質のものではないかね」
 谷村はこの種の論法に生来練達してゐた。仁科に対しては心に余裕があつたから、この論法は仁科の焦りにひきかへて辛辣さを増すばかりであつた。
 谷村にやりこめられる仁科は、素子に媚びた。
 仁科の媚態は、谷村の毒舌の結果の如くであつたから、谷村は多くのことを思はずに過してきたのである。岡本の媚態を見るに及んで、谷村には思ひ当ることがあつた。
 仁科の媚態は岡本の如く卑しくはなかつた。仁科は弱点をさらけだしてはゐなかつた。身を投げだしてはゐなかつた。元来素子と仁科には十歳以上年齢のひらきがあるから、媚びることに一応の自然さがあつたのである。
 精神的に遅鈍な仁科は本来肉感的な男であつた。彼の態度のあらゆるところに遅鈍な肉感が溢れてゐたから、特に一部をとりあげて注意を払つてみることを谷村は気付かずにゐた。仁科の媚態にも、岡本と同じものがあつた。それは素子の肉体に話しかけてゐることだ。岡本の媚態によつて、谷村はそれを発見した。
 そのとき谷村は更に意外な発見をつけたした。それは蛙の正体に就てであつた。
 谷村は思つた。この数年来、仁科に対して見せてゐる谷村の態度が、素子の反感をそだててゐたのではなかつたか、と。谷村は常に仁科をやりこめる。その作品を嘲笑する。みぢめな思ひをさせてゐる。そして怒らせて悦に入つてゐる。素子はその谷村にひそかな憤懣をよせてゐた。そして、やゝ似た事態が岡本の場合に起つたとき、岡本に仮託してかねての憤懣を吐きだしてゐるのではないかと。
 かゝる憤懣をひそかに燃す素子は、いつか仁科を愛してゐるのであらうか、と谷村は思ふ。
 素子は谷村を精いつぱい愛してをり、昔も今も変りはなかつた。変つたのは、年をとり、新鮮味が衰へて、愛情でなしにいたはりを、献身でなしに束縛を意識しがちであるといふことだけだつた。谷村は素子の魂の純潔を疑る思ひは微塵もなく、長い旅路の大きな感謝があるだけだつた。
 あらゆる人々に夢がある。この現実は如何なる幸福をもつてしても満し得ず、そして夢は束縛の鎖をきつて常に無限の天地を駈け狂ふものであつた。それを許さずに、どうして人が生き得ようか。又、夢すらも持ち得ぬ人を、どうして愛しなつかしむことが出来ようか。人に魅力がありとすれば、その胸に知り得ぬひめごとが有るからであり、その胸に夢も秘密も失せ果てたとき、何人が無慙なむくろを愛し得べき筈があらうか。
 然し、素子の夢とは? この現実の束縛を逃れて、素子は何を夢みてゐるのであらうか。夢の中に、仁科を思ふこともよい。然し、仁科の何を思ひ、何を夢みてゐるのであらうか。
 谷村は二人の男の媚態に就て考へる。二人の男は、自分の知り得ぬ素子の心、ひめられた素子の夢の在り方に就て知り得てゐるのではないか、と。この現実では満し得ぬ素子の夢、そして、素子の満し得ぬ現実とは彼自らに外ならぬのだが、要するに素子の夢は彼に欠けた何かであり、素子の夢を知り得ない唯一の人は彼自らであるといふ突き放された現実を見出さゞるを得なかつた。
 俺が死ぬ、すると素子はいつたいどこへ歩き去つてしまふのだらう? 谷村は常に最悪を考へた。そして、最悪以外に考へることができなかつた。谷村は死ぬ怖れに堪へ得なかつた。
 考へすぎてはいけないのだ、と谷村は思ふ。このさゝやかな現実、さゝやかな生命に、精一ぱいのいたはりと愛情だけをそゝがなければ、と。
 然し、谷村は熱烈な恋がしたいと思つた。肉体といふものゝない、たゞ精神があるだけの、そしてあらゆる火よりも強烈な、燃え狂ひ、燃え絶ゆるやうな激しい恋を。その恋とともに掻き消えてしまひたい、と谷村は思つた。



底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二四巻第七号」
   1946(昭和21)年9月1日発行
初出:「文藝春秋 第二四巻第七号」
   1946(昭和21)年9月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング