て、私は戯談《じょうだん》がきらひでございます、お引とり下さいませ、とハッキリ言つたさうである。
 岡本はその話を藤子に語つてきかせて、成功の見込みのないことが分つてゐたから、かへつてフラ/\口説く気になつたんだ、かういふ惨めな口説き方をしてみることに興味を感じたまでのことさ、と言つたさうだ。
 岡本は性格破産者で、根柢的に破廉恥な人であつた。けれども谷村は世間的には最も指弾さるべき岡本の性癖に於て、却つて心を惹かれ、ゆるす気持が強かつた。たとへば傷もないのに顔中に繃帯をまき無性髭をはやして見込みのない令嬢を口説きにでかけるなどゝいふことが、善悪はともかく、生半可な色事師にはやる気にならない馬鹿らしさがあり、通俗ならぬ試みに好奇心を賭けてみる行動の独創性があるのであつた。ともかく、こゝらあたりは持つて生れた芸術家の魂で、汚らしくても、面白さがある、と谷村は思つてゐた。
 この日の一万五千円の金談も、繃帯の訪問と同じことで、始めから仕組まれた芝居のやうに谷村には思はれた。
 一万五千円といふ金額が抑々《そもそも》突飛きはまるものでこの金談のとゝのはぬことは岡本自身知りすぎてゐるにきまつてゐる。金の必要の理由に就ても、しどろもどろで、一向に実感がない。実感がこもつてゐるのは媚態だけであつた。
「ねえ、素子。先生の話はをかしいね。一万五千円の入用だなんて、作り話ぢやないかね。出来ない相談だといふことは分りきつてゐるぢやないか。然し、作り話だとしてみると、なぜこんな馬鹿らしいことをやる必要があるのだらう」
 素子はそれに答へてきつぱりと言つた。
「あなたが先生をやりこめたからよ」
 思ひがけない答であつた。
「なぜ? 僕が先生をやりこめたのが、なぜこの馬鹿げた金談の原因になるのかね」
「先生はいやがらせにいらしたのよ。復讐に、こまらしてやれといふ肚なのよ、あなたが先生にみぢめな恥辱をあたへたから、うんとみぢめなふりをして私たちを困らしてやるつもりなのでせう」
「そんなことが有り得るだらうか。第一、僕たちは一向に困りはしないぢやないか」
「でも、人の心理はさうなのよ。みぢめな恥辱を受けるでせう。その復讐には、立派な身分になつて見返してやるか、その見込みがなければ、うんとみぢめになつてみせて困らしてやれといふ気になるのよ。復讐のやけくそよ」
 妙な理窟だが、一応筋は通つてゐた。さういふ心理も実際に有りうるに相違ない。
 だが、岡本の場合、それが果して真実だらうか。先づ何よりも素子がそれを果して信じてゐるのだらうか。
 素子は岡本の媚態を「みじめ」と言ふ。そして素子はみじめな男が何者に向つて話しかけてゐるか、話しかけられてゐる者が自分の中に棲むことを「今」は気付かぬのかも知れない。そしてたぶん今は気付かぬといふことが本当だらうと谷村は思つた。そして、今は気付かぬといふことの中に多くの秘密があることを見出したやうに思つた。

          ★

 近所に住む大学生で、谷村夫妻に絵を見てもらひにやつてくる男があつた。仁科と云つた。絵の才能はもとよりのこと、絵の趣味すらもない男だ。たゞ物好きがあるだけで、マッチのペーパーを集めるやうな物好きで、絵をかき、それを見せにくるのである。今では大学を卒業して、官庁の役人になつてゐた。
 絵は下手くそだが、画論だけは一人前で、執念深く熱論にふけり谷村を悩ますのだが、例の物好きで手当り次第に画論だの美学の本を読み耽るから雑然として体系はないが谷村を悩ますためには充分であつた。
 仁科は身だしなみがよかつた。ポマードも入手難の時世であつたが、彼の毛髪は手入れよく光つてゐたし、ネクタイから靴の爪先に至るまで、煙草ケース、ライター、時計、ペンシル、パイプ、こまかな一々の持物にも何国の何製だの何式だのと語らせれば一々数万語の説明が用意されてゐる。それに反して心象世界の風物には色盲であり、心の風も、雲も、霧も、さういふものには気もつかず、気にもかゝらず、まつたく手入れがとゞいてゐなかつた。
「君は何のために絵をかくのだらうね。仁科君。人が写真をうつすには、記念のために、といふやうな目的があるものだがね。そして、記念とか、思ひ出のためにといふことは、下手クソな絵を書くよりは充分意味のあることさ。ところが、君の絵ときては、記念のためでも思ひ出のためでもないことが明かなやうだが、違ふだらうか。そして、自然が在るよりも大いにより汚く、無慙きはまる虚妄の姿に描き上げてゐるのさ。これは君の美学では、どういふ風に説明するのかね」
 谷村は仁科の顔を見るたびに、からかはないといふことはない。仁科は焦つてムキになつて画論をふりかざしてくるのであるが、谷村はまともに受け止めることがない。体をひらいて、横からひやかす戦法を用ひるのだつ
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