無反省な娘のやうに、全身的で、没我的であつた。素子の貪慾をみたし得るものは谷村の「すべて」であつた。谷村の痩せた額に噴きあがる疲労の汗も、つきせぬ愛の泉のやうになつかしく、いたはり拭ふ素子であつた。
谷村は人並の労働の五分の一にも堪へ得ないわが痩せた肉体に就て考へる。その肉体が一人の女の健康な愛慾をみたし得てゐることの不思議さに就て考へる。あはれとはこのやうなものであらうと谷村は思つた。たとへば、自ら徐々に燃えつゝある蝋燭はやがてその火の消ゆるとき自ら絶ゆるのであるが、谷村の生命の火も徐々に燃え、素子の貪りなつかしむ愛撫のうちに、やがて自ら絶ゆるときが訪れる。
献身の素子と、貪婪《どんらん》な情慾の素子と、同じ素子であることが谷村の嘆きをかきたて、又、憎しみをかきたてた。情慾の果の衰へがやがて谷村の季節々々の病気につながることすらも無自覚な素子に見えた。献身は償ひであらうか。衰亡は死によつて終り、献身は涙によつて終るであらう。数日の、たゞ数日の、涙によつて。
然し情慾の素子と献身の素子には、償ひと称するやうな二つをつなぐ論理の橋はないのだと谷村は思つた。素子は思慮深い人であるから、過淫が衰弱の因となり、献身がともかくそれを償ふことを意識しない筈はない。だが、意識とは何ほどの物であらうか。流れつゝある時間のうちに、そんなことを考へてみたこともあつたといふだけではないのか。
素子の貪婪な情慾と、素子の献身と、その各々がつながりのない別の物だと谷村は思つた。素子の一つの肉体に別々の本能が棲み、別々のいのちが宿り、各々の思考と欲求を旺盛に盲目的に営んでゐるのであらう。素子の理智が二つの物に橋を渡すことがあつても、素子の真実の肉体が橋を渡つて二つをつなぐといふことはない。そして素子は自分の時間が異つたいのちによつて距てられてゐることに気付いたことはないのである。
谷村は咒《のろ》ひつゝ素子の情慾に惹かれざるを得なかつた。憎みつつその魅力に惑ふわが身を悲しと思つた。谷村は自らすゝんで素子に挑み、身をすてゝ情慾に惑乱した。その谷村をいかばかり素子は愛したであらうか!
遊びのはてに谷村のみが我にかへつた。その時ほど素子を咒ふこともなく、その時ほど情慾の卑しさを羞じ悲しむこともなかつた。素子は情慾の余燼《よじん》の恍惚たる疲労の中で恰も同時に炊事にたづさはるものゝやうな自
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