どもは三千円のお金なんて、もう何年も見たことがないわ」
 素子は三千円の金の包みを岡本に返して、立上つた。そしてキッパリ言つた。
「金額だけの問題ではございません。私どもは先生の正しいお役に立つことにだけ手伝はせていたゞきたいと思つてゐます」
 そのまゝ素子が立去る気配を示したので、岡本はよびとめた。
「奥さん」
 岡本の顔がくしや/\ゆがんだ。岡本は素子をよびとめるために左手を抑へるやうに突きだしてゐた。その手がゆるやかに戻つて、なぜだか自分の顎を抑へた。同時に右手で腹を抑へた。そして顔をグイと後へ突きのけるやうな奇妙な身振りをした。すると突然ヒイといふ声をたてゝ泣きふしてゐた。
 あさましい姿であつた。素子はそれを見すくめてゐたが、すぐ振向いて立去つてしまつた。谷村には一瞥もくれなかつた。

          ★

 岡本の女のひとりに藤子といふ人があつた。彼女も昔は岡本の弟子で、一時は喫茶店の女給などもしてゐたが、岡本と手を切つてのち、今では株屋の二号になつてゐる。谷村の散歩の道に住居があるので、時々立寄ることがあつた。五尺四寸五分とかの良く延びた豊艶な肉体美で、絵を書くよりもモデルの方が適役だと絵描き仲間に噂のあつた人である。
 この人の立居振舞にはどことなく下卑《げび》た肉感がともなうので、素子は谷村が足繁く訪ふことに好感を持たなかつた。あなたもエロだわと、谷村をひやかしたり、嫌つたりしたのである。ところが、谷村はあべこべに、肉感を露骨にあらはしてゐる女であるから、藤子に気がおけず、のび/\と話ができるのであつた。谷村は男同志でも言へないやうな露骨な話を気楽に藤子に言ふことができた。藤子の立場も同様で、男女の垣にこだはる必要がなかつたのである。
 藤子からきいた話に岡本の失恋談があつた。岡本のお弟子の一人に美貌の令嬢があつた。冷めたい感じの、しつかりした人であつたから、岡本も手をだしかねてゐた。ところがこの令嬢が婚約したといふ話をきいたとき、おまけに相手の男が三国一の聟がねで幸福な思ひで一ぱいらしいといふ註釈がついてゐるのに、岡本は急に思ひたつて口説きにでかけた。わざと無性髭《ぶしょうひげ》をぼうぼうさせ、おまけに頭から顔の半分を繃帯でつゝんで、杖に縋つて呻きながら出かけて行つたさうである。そして令嬢に愛の告白をしたところが、令嬢はさすがにしつかりしてゐ
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