谷村が素子を恋するよりも、決してより少く谷村を恋してはゐなかつた。技巧と解すべきか、真実の魂の声と解すべきか。或ひは又、女にとつては真実と技巧が不可分なものであるのか。その解きがたい謎に就て、谷村が直面した第一歩であつた。
二人の年齢が一つしか違はないから、といふ、それに補足して素子は言つた。女は早く老けるから。そしてあなたはいつか私に満足できなくなるでせう、と。けれども事実はあべこべであつた。そのときから十一年、谷村は三十八となり、素子は三十七になつた。素子はいくつも老けないやうに思はれた。素子には子供がなかつた。子供が欲しいと思はない? と素子が言つた。すると谷村は即坐に答へた。あゝ、欲しいさ。そのおかげで、君がお婆さんになるならね。
素子の皮膚はたるみを見せず、その光沢は失はれず、ねつちりと充実した肉感が冷めたくこもりすぎて感じられた。谷村はそれを意識するたびに、必ずわが身を対比する。痩せて、ひからびて、骨に皮をかぶせたやうな白々とした肉体を。その体内には、日毎の衰亡を感じることができるやうな悲しい心が棲んでゐた。
俺が死んだら、と谷村は考へる。素子は岡本のやうな好色無恥な老人の餌食にすらなるのではあるまいか、と。恋愛などいふ感情の景物は有つても無くても構はない。たゞ肉体の泥沼へはまりこんで行くだけではないのか。するとそのとき、素子のひろい心だのあたゝかい思ひやりなど、それは烏がさした孔雀の羽のやうにむしりとられて、烏だけが、肉体といふ烏だけが現れてくるのではないか。
俺は恋がしてみたい。肉体といふものを忘れて、たゞ魂だけの。そのくせ盲目的に没入できる激烈な恋がしてみたい。ならうことなら、その恋のために死にたい、と谷村は時に思つた。もうその恋も、肉体のない恋ながら体力的にできなくなつてしまひさうな哀れを覚えた。
そして谷村は、そんな時に、信子のことを考へた。
★
素子に話しかける岡本は、哀訴のたびに、媚びる卑しさを露骨にみせた。弟子に対する師の矜持《きょうじ》は多少の言葉に残つてゐたが、それはむしろ不自然で、岡本自身がそれに気付いてまごつくほどになつてゐた。年下の男が年上の女に媚びる態度であつた。
それを見てゐる谷村は、別の意味に気がついた。それは一人の魂が媚びてゐるのではなく、一つの男の肉体自体が媚びてゐる、といふことだ
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