無人でした。それはジイドの及びがたい、否ジイドには有り得ないものなのです。結局彼はその若かつた時代に、彼が当然さうでなければならなかつた自然の不安と敗北を、ワイルドを手掛りにして深めるやうなめぐりあはせになつてゐたと言ふべきでせうか。そのやうに言ひ得ることも事実でせう。
 書き忘れましたが、たしか誰かの文章に、芥川龍之介のうつる活動写真があつて、その写真の中では芥川が臆面もなく小僧のやうに木登りをしてみせるさうです。それを見て不快だつたといふ意味が洩らしてあつたと思ひました。私も甚だ同感でした。恐らく私もそれを見たら、同じやうに不快を覚えてしまふでせう。
 芥川は不均斉を露出する逆方法によつて、先手をとりながら危なさを消す術の方を採用してゐたのでしたが、日本人の生得論理と連絡のないニヒリズムの暴力の前では、映画の中で行ふ種類の木遁《もくとん》の術の手並でも、却々もつて彼等のひねくれた眼力を誤魔化し、安定感を与へてやることはできません。さらに今日の時世が、そのやうなそれ自体としても決して愉快ではない眼力を一層深めさせてもゐるのでした。
 私が縷々万言を費したことはたかが表情に就てですが、
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