意の視線をシュバリエもどきの軽快さで洒脱にかはす術にたけてゐたでせう。彼等は現実のどの一齣《ひとこま》にも才に富み、無芸大食の徒輩のやうな重さや危なさがなかつたのです。然し彼等の芸道では、彼等が現実に示したやうな多才ぶりや危なげのなさに比べると、要するにそれ以上ではありません。なぜなら女占師の敵意の視線をかはす程度の顔面神経の応接のみでは余りにもその解決に縁遠い不滅の苦悩がまた人性がそれらの奥に洋々たる流れの姿を示してゐるではありませんか。文学の問題は現実の表情の場合のやうにはいかないでせう。芥川は女占師の敵意の視線をかはすためには才に富み恐らく危なさといふものがなかつた程度に水際立つた武者振りであつたにしても、それらの表皮的な武者振りにやや軽薄な自信すら托したことの不当さが、やがて遠まはしの仕掛けの後に、彼の深奥をいためる傷のひとつともなつたことが想像されます。自らを育てるためにも、また自らを傷めるためにも、それほども苛烈なはたらきを示すところの理知の刃物に恵まれなかつた江戸の戯作者達は、芥川の場合に比べてあるひは多分に幸福であつたのでせう。ジャン・コクトオの如き人も女占師の敵意の前では、シュバリエも及びもつかない斬新な応接ぶりで、同じ場合を二度見る人には変化の妙を伝える程度の退屈させない如才のなさまで行きとどく縦横無尽変幻自在の妙技に酔はしてくれるでせうが、やがてそのことがかの解きがたい内部の世界に不運な通路と限定を与へなければ幸せです。
 アンドレ・ジイドの「オスカア・ワイルドの思ひ出」を読んでから思へば十年の歳月が過ぎたやうです。私はあれを私達の同人雑誌へ載せるためにあらかた翻訳し終つたとき、河上徹太郎が何かの雑誌に訳載しだしてしまつたので、断念したきり、原稿の行方も分らずじまひです。
 あの文献に対して、私はスクレ・プロフェッショネルな楽屋落ち以上に勝手な聯想を働かせて、ひとりで悦に入りながら読んだやうな覚えがあります。私にさういふ読み方をさせるやうな、聞きての役に適当した長島|萃《あつむ》といふ相棒がそのころ健在であつたせゐです。この才人は夭折しました。
 私はあの文章の中から、ワイルドの野人ぶりを軽蔑しながらそれに敗北しつづけたジイドの一人相撲の反感を自分勝手に読みだして、あの文献の直接の興味と別な私《ひそ》かな興に面白がつてゐたのです。
 ワイルドは
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