現れますが、彼の現実の生活では、最も快適な酔ひの後に、やうやくいくらかそれらしい調子の外れた笑ひがでたにすぎません。
先日モーリス・シュバリエの映画を見て、かうした際の重い感じを、たうてい芥川龍之介が足もとへすら及ばぬ程度の巧みさで軽くかはしてしまふのを見て、彼が時代に流行する当然の理由を知つた思ひがしたのです。かうした際のチャップリンの危なさは私には堪へられません。稀れにしか映画を見ないうへに、ことに日本映画には無縁の日々を送つてゐてそれに就て語ることも奇妙なのですが、P・C・Lの写真ばかりを二三見ました。登場する俳優達の表情の重さや危なさが余りとはいへ無芸の極みで言語同断の感でしたが、北沢といふ男のひとと椿といふ女のひとがシュバリエとの比較はとにかく、さうした軽いかはしかたを恰も生来のもののやうな自然さで体得してゐる事実を知り、無縁に見えた日本映画愛好者にいくらか信頼をもちだしたのです。またエンタツ氏の映画ならなるべく見やうと思ひました。然しかやうな言種《いいぐさ》は映画を徒然のなぐさみに読む絵草紙然たるものとしての見解で(私はそのやうな意味でのみ映画を見がちなものですから)芸術としての批評の仕方ではないのです。
江戸時代の戯作者達は主としてこの精神に生きてゐたいはば極めて人生の表情的なやりくりに彼等の思想や芸術の浮身をやつした通人であつたやうです。それゆゑ彼等の流れをくむ落語の中にもこの精神は今なほ生きてゐるのです。然しながら小勝や小さんや文楽や柳枝のやうな小数の人を除くと、この精神ももはや概ね死体の醜をさらしてゐるにすぎません。もともと伝統にとぢこもつた古典的な芸術となると、その形態がすでに現代に通じにくいものですし、細かな芸の最も底面に凝縮せしめられたその真髄を知るためには、その芸の伝統や型と他人でない特殊な愛と教養を必要とせずにゐられません。時代精神が時代と共に生きるやうな自然さや安易さでは理解されないものであります。それゆゑ落語の真髄が今日の極めて新らしい精神に通じるものをもつてゐても、いはば一方はある伝統の真髄に属するゆゑに理解されず、むしろ芸の真髄を外れた金語楼や三亀松がその真髄を外れたための安易さを土台として、今日の真に新らたな精神ともまつたく無縁な繁栄ぶりを見せるといふ皮肉な事態を生みだします。
芥川と同様に江戸時代の戯作者達も女占師の敵
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