定的な理由は、この本が人間性の真相を道破してゐる、だから、どうにも仕方がない、といふ意味に於てだ。
たいがい小説には多かれ少かれ作者の思想めくものが作中人物を思想的に動かしてゐるもので、さうすることによつて、さうしなかつたよりも曰くありげな面魂を作りだし、その作品の声価を高めたり低めたり、評者の評語を強いたりしてゐるものだ。又、それによつて、文学史上の位置を占めることにもなる。
ところがラクロの「危険な関係」に至つては、作者の思想が作中人物に及ぶといふところが全くないに等しい、よつて又、文学史上の位置も有つて無きが如く、無くて有る如く、アイマイ、モコたるものでジッドの讃辞にも拘らず、ジッド宗徒のたむろする日本フランス文学者の間ですら、一向に声価は上らなかつた。
ここには一つの「眼」があるけれども、思想がない。小林秀雄は兼好法師の眼に就て論ずるところがあつたけれども、兼好の眼とラクロの眼は大変違ふ。兼好の見た人間の実相とラクロの見た人間の実相は甚しく相違してゐるのである。
思想によつて動くことのない眼だと小林が徒然草の作者に就て言ふ言葉はラクロに就ても言へるけれども、徒然草の作者
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