距りにも拘らず、最も近代を思はせるものは、それが思想によつて書かれずに、眼によつて、鬼の眼によつて、不動の眼によつて書かれてゐるからだと私は思ふ。伊勢物語や西鶴の作品に近代の感覚が漂ふのは、その思想によつてでなく、ラクロに近似したその眼によつてのことである。
 近くはレエモン・ラディゲがさうであり、人は彼が時間的に近代の人であるため、彼に時間的な近代を認めがちだが、単に昔ながらの文学の宿命的な近代、つまり人間を眼によつて描いてゐるにすぎないのである。
 そしてラディゲが、同じ一つの眼によるに拘らず、少年の作品であるとすれば、ラクロはより成熟した作品で、その意味に於ては、「ドルジェル伯の舞踏会」を昔に、「危険な関係」をより近代の作品に見たてても差支へがない程である。
 つまりラディゲの窓からは、まだ肉体の人間関係が閉ざされてをり、彼のエスプリ、彼の眼は、ただ思慕や姦淫の念とその裏側のカラクリをめぐる人間戯楽の図絵を突きとめ得たにすぎない。ラディゲにも Diable au corps といふ十何歳かの作品があるけれども、その魔の宿る肉体は幻想的な自涜的肉体であるにすぎず、肉体によつて始まる愛憎、精神、真にぬきさしならぬ人間関係は全く描かれてはゐない。そのやうな人間と人間関係を見る眼の成熟のためには、ラディゲの天才を以てしても、二十三歳の年齢では如何ともなしがたい性質のものなのである。
 ラクロやラディゲの人間は十八世紀でもなく二十世紀でもない。ギリシャの昔から、未来永劫に至る人間で、ラスコリニコフが十九世紀乃至二十世紀にしか生息し得ないであらうことに比べて、現世的な活力は謙虚であつても、その人間的実在は一つの絶対を道破してゐるものなのである。
 思想は、そして思想的人物は、その思想によつて最も強力な現世的実在でありうるけれども、又、思想の故によつて老い、亡びるものでもある。そこには現世の良俗と直接取引が行はれてゐるから。
 ラクロにはその序文に現れた処世の悩みにも拘らず、その作品には、現世の良俗と取引するところは一つだにない。然し、法院長夫人の悲劇はあらゆる時代に存し、侯爵夫人も子爵も我々の身辺に又我々自身に実在し、可憐なセシル・ボランヂュは常にかくの如く我々の身辺に成熟しつつあるではないか。
 我々の良俗の根拠が、この事実に眼を覆ふて、それが健全でありうるだらうか。

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