が否定的に見てゐることをラクロは肯定的に見てをり、否定的態度といふものが実はそれ自体強力な思想でありモラルであるのに比べて、肯定的態度といふものは決して自ら思想を構成するものではない。ただ人間とその実相があるのみであり、それは即ち兼好は世捨人であつたに比して、ラクロは凡そ一つも世を捨てる片鱗もない生活人であつた。この二つの決定的な相違は、一つの眼の及ぶ視界にも決定的な相違を現はし、従つて、兼好の眼は思想によつて動くことのない眼などといふ冷厳なものではなくて、世捨人の思想によつて曲げられた通俗的なフシアナの眼であつたにすぎない。
 二十世紀の私はラクロの如くに私の作品に「反良俗の弁」を書くほどの含羞はすでに無い。それは恐らくラクロの方が私以上に「良俗」に就て侮蔑的であつたせゐだと私は思ふ。「現代の世相」と云ひ、良俗を時代的な意味に解したラクロに比べれば、私は人間性を無限なるものに解すると同様に、良俗をも無限なるものに解してゐる。
 人間性といふものが人間の現世に正しく復帰するといふことは恐らく永遠に有り得ないと私は思ふ。いつ如何なる現世に於ても、常に現世の良俗といふものが存在して、人間性をゆがめ、各自反逆し合ふタテマヘを免れ得ないに相違ない。
 社会的なる人間と個人的なる人間と、その二つが相反せざる唯一のものとなり得る時があるだらうか。思ふに現世の良俗は破れた嚢《ふくろ》を縫ふやうな間に合せな稚拙なカリヌヒであるにしても、あらゆる現世に於て多かれ少かれカリヌヒであることはその宿命で、良俗に就てかかる絶望的な宿命を確認することは、良俗への侮蔑の念を失ふ根柢ともなるものである。良俗はタカの知れたものではあるが、それが永遠にかかるものでしか有り得ないと見るときには、タカの知れたものであるまま、その意味を認めて何等かの協力を致さざるを得なくなるであらう。
 それにも拘らず、人間性といふものは、その実相を率直に指し示すことによつて、良俗と相容れ協力する余地はない。その実相に於いて直接相反するものであることは如何ともなしがたいものである。
 然し、直接に不協力の意味に於て、人間性の冷酷な写実を悪徳と見るのは当らない。なぜなら、人間はかくの如きものであるのだ。あらゆる良俗に反するにしても、常に人間がかくの如きものであることに於いて変りはないから。

「危険な関係」が二百余年の時間の
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