躍に、意味やイノチが宿ることゝもなるのである。
思想の文学は、人生を発明工夫して行く、いわば行動の文学でもある。この型の文学は個人だけではあり得ない。時代がある。社会がある。それらとのツナガリを離れては成りたゝぬ。
社会小説とか農民文学とかいうけれども、特別そんなレッテルがあるのはバカバカしいことで、思想の文学は当然時代に社会に政治に結びついて発展構成せざるを得ないもの、従って又、そのような文学は、思想によって新しく、時代の流行ともなりうる代りに、思想によって老い、時代と共に亡びる性質もある。つまり人生五十年のよりよき工夫が五十年と共に死滅する宿命と同じことで、要するに人間が生きるということは、このように亡びる事実にも外ならぬ。それ故に又、かゝる工夫の悪アガキが幼稚であっても、冷然白眼視の悟り屋よりも、生きているのだ。不滅の人間一般にくらべれば、五十年の人間は、いつも幼稚でバカバカしい。それが「生きる」ことの真相でもある。
この幼稚を怖れてはならぬ。思想は元々幼稚にきまっていることを知らなければならないものだ。さもなければ、すぐれた思想は起らない。日本文学は古来人生を白眼視の悟り
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