屋と両方へ別れる。之から後が色々と珍人物の登場時間になるのである。
夕方僕の下宿を訪ねてくる姓名不詳の人物がある。女中の知らせで玄関へ出ると、これがブロンズ像である。晴着など一着して、めかしてる。
「店は休みかい」と言ふと
「へつへつへ。公休日で」と、それから吃りながら「ちよつと一杯やりませんか。どこか色つぽい所で」
ブロンズおやぢは自分の屋台へおでんを喰ひに来てくれる女給の所を、順ぐりに廻つて歩くのである。馴染の客を誘つては廻つて歩く。だから公休日が頻《しきり》につゞくのである。
このおやぢの美点は世に稀なフェミニストであることである。先天的に女をいたはる精神をもち、好色ではあるが、執拗を持たず、常に礼節を失はない。騎士道をふみ外すことがないのである。
明方三時ちかい頃、僕のほかに床屋のおやぢと弁護士が飲んでゐた。そこへ酔つ払つた女がひとり舞ひ込んできた。二十四五である。やがて店をしめる時間がきたので、女が待合で飲み直さうと言ひだした。得体の知れない女だが、酔つてゐるので床屋と弁護士と僕と三人一緒に車を走らせて湯島へ行つた。
女が待合の戸を開きだしたら、深夜に響くその音に、三人の酔つ払ひは始めて強烈な現実感を呼びさまされ、これは逃げるに如かずだと一目散に駈けだした。床屋のおやぢの速いこと、下駄を手に持つてジャングルの野獣のやうに快走した。
翌日もその翌日も又翌日もブロンズおやぢは休業した。四日目に店を出したので、どうしたい、病気だつたのかと言ふと、御冗談でせう、貴方達が気分を出してゐるもんだから、こつちだつて黙つてゐられませんや、店を片づけると飛び出してお蔭様で三日間沈没した始末でさあと慨嘆してゐた。
このおやぢの偉いところは、人の外見で人物を判断しないことである。銀座で似顔絵を書いてゐる通称「三平」といふ愛すべき青年がゐる。破れたブルースをきて毛髪茫々乞食か刑務所を出たばかりといふ風態だが、おやぢは一目見て三平はいい男だと言つてゐる。三平を見ると大概の客は逃げ出すのである。
一度この店で酔つ払つてゐると、いきなり僕に喰つてかかつた奴がある。知らん顔をしてゐると何度も喰つてかゝる。見ると不良のやうだ。堪りかねて殴つた。おやぢが忽ち加勢して、僕はひとつ殴つただけだが、おやぢは十ほど殴つた。
殴つたあとで、彼奴は人のいい男ですよ。私の仲のいい友達ですと言ふ。なるほど其後打ちとけて話してみると稀代な好人物なのである。
先日おやぢが白昼突然やつてきて「へい新聞を買ひに上りました」と云ふ。この前来たとき新聞の山を見てゐたのだ。新聞をまとめて、どつこいしよと担いで、さて一杯飲みませうと外へでて、酔つ払ひ、新聞を路上へうつちやらかして消えてしまつた。
(三)[#「(三)」は縦中横] 碁会所
昔は床屋や銭湯が町内風景の見本のやうになつてゐたが、バリカンの床屋や湯女《ゆな》のゐない銭湯には、もはや町内風景がない。僕の出入する限りでは、碁会所に一番町内風景が漂つてゐるやうである。
僕は京都で一年半「吹雪物語」を書いてゐたとき、いくらか本格的に碁を学び、自分の下宿に碁会所を開かせたりした。
そこは集るのが下手ばかりで、僕など強い方だつた。関西では碁が優勢になると「どうぢやどうぢや」と勇み立つ。ところが頽勢の方の男が一向騒がず「どうぢやは大蛇の首なしぢや」と呟いてゐるのをきいて噴きだしたことがあつた。
ところが東京へ帰つてきて、本郷三丁目の富岡といふ碁会所へ行くやうになつたら、ここでは僕が最も下手な部類であつた。この碁会所は東京で最も強い連中の集るところださうである。大概段をもつてゐる人達だ。
ここの常連にNさんといふ退役海軍大佐がゐる。この碁会所で明らかに僕より弱いのはこの人だけだ。Nさんは四段と打つても僕と打つても常先で打つ。決して置碁を打たない。置けば置くやうに負けるから、置かない方がさつぱりしてゐて気持がいいに極つてゐる。
ところが物のはづみで稀に四段が負けたりするから有頂天になるのである。一年か二年にたつた一度あることだが、それだけが楽しみで毎日打ち、毎日負けてゐるのである。
Nさんは六十|幾《いくつ》だが、気持は青年である。この碁会所は帝大の碁の選手の稽古場になつてゐるが、さういふ若い学生や僕達と酒をのむことが好きである。
近所のおでん屋に眼の青い娘がゐる。N大佐はこれを「スペインの女王」と称して繁々通ふ。通ひ憎いものだから、わざと酒を賭けて碁を打つ。碁を打てば負けるに極つてゐる御人だから、どうしても自分が奢ることになる。この戦略の成功しない怖れがない。そこで早速おでん屋へ駈けつける。
始めのうちは「息子の嫁に恰度《ちょうど》手頃だ」などと息子をとんだ犠牲者にしてせつせと通つてゐた。
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