つゞいて座につく。
「では、もう、そろそろ」
と、木村名人。小学校の一年生の徒歩競走の出発のやうなとりとめもない気配のうちに勝負がはじまつてゐる。十時二分。
先手の塚田八段、第一手に十四分考へる。途中で便所へ立つ。木村名人は私達に向つて、あなた方は洋服だし先が長いことだからどうぞお楽に、と言つたりする。
塚田八段七六歩(十四分)木村名人三四歩(三分)間髪を入れず塚田五六歩、木村七分考へて五四歩、それから間髪を入れず二五歩、五五歩、二四歩、同歩、同飛、三二金。
私は碁の大手合は時々見たが、間髪を入れず、といふのはメッタにない。碁の定石《じょうせき》は極めて不定多岐多端だが、将棋の定跡はある点まで絶対のものらしい。然し終盤に及んでからも、四五手間髪を入れず応酬し合つた時があつた。碁の方では分りきつた当りを継ぐのでも四五十秒は考へるやうだ。名人位がひつくりかへるといふ終盤の勝負どころへきて、全く間髪を入れず、スースースーと駒が一本の指に押へられて横へ前へすべつて行く。私は変な気がした。ひどく宿命的なものを感じさせられたからである。名人が駒を動かしてゐるのぢやなしに、駒が自らの必然の宿
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