魔との争ひ、勝つべくもないムダな争ひ、凄惨見るに堪へざるものであつた。私は近親の臨終を見るよりも苦しかつたのだ。
 徹夜で待ちかまへてゐたニュース映画の一隊が時を移さず撮影にかゝる。ごた/\ひつくりかへる騒ぎ。名人そんなことも気がつかぬらしくひきつり、うはずつた顔、声、コマを動かしつゞける。二十分すぎて、二時四十五分、はじめて名人の顔に、つくり物ではあつたが、笑顔の一種が浮かぶことができた。
 私はもうウンザリした。村松さんを探しだして、
「一戦やりませう」
「アヽ、やりませう」
 二階へあがつた。

          ★

 新聞社のウイスキー、土居八段持参の自慢の銘酒、二〇度あるんぢや、水に一割、わつて飲む、といふ品物、あけがた、いくらか酒がまはつて、新旧名人、赤い顔、木村名人も人心地をとりもどしてゐた。
 私はたしかに名人よりも弱いのです。弱いのに、勝つちやつたから、ボンヤリして、うれしいといふ気持がうかばなかつたんです、と塚田新名人が言つた。強者が追ひこまれた時の心理上の負担は大きく、深刻だから、強者の方が自滅する、その傾きがこの名人戦にあつたであらう。木村名人弱しとは言へない。
 私には然し名人の敗北が当然に見えた。
 名人は言つた。天命だ、と。又言つた。時代だ、と。時代の流れがあらゆる権威の否定に向つてゐる、その時代を感じてゐた、と。
「私はショーオーですよ。自分で法律をつくつて、自分がその法律にさばかれて死んだといふショーオーね、私が規則をつくつて、規則に負けた、私は持時間八時間ぢやア、指せないね。読んで読みぬくんだから。私は時間に負けた。ショーオーなんだね」
「ショーオー。僕は学がないからね。字を教へてよ。どんな字かくの?」
 倉島竹二郎がヅケヅケ言ふ。
「商業の商。オーはねオーは面倒な字だ、リッシンベンかな」
 商怏とでも書くのか。自分でつくつて、自分でやられた、つまり、ムッシュウ・ギョタンだらう。
 私は然し、名人の敗因は、名人が大人になつて、勝負師の勝負に賭ける闘魂を失つたこと、それだけだと思つた。それは「負ける性格」なのだ。闘志は技術の進歩の母胎でもあるが、木村名人の場合は、それが衰へたといふよりも、大人になつたといふこと、そつちの方がもつとひどい。
 木村名人は升田八段に三連敗した。苦しい旅行の休むまもない無理な対局であつたさうだが、なぜそんな無理をして悪コンヂションで戦ふのですかと倉島君がきいたら、
「いや僕はね、自分を悪いコンヂションに、相手には良いコンヂションに、それで戦ふタテマヘなんだ。こつちは無条件、相手の望む条件通り、うけいれて、指す。私からは注文をつけない、相手の希望はみんな通してやる、それで戦ふ、それでなきやいけないと思つてるんだ」
 名人戦の第六局だかで、千日手になるのを名人からさけて出て、無理のために、破れた。自分を犠牲にして、負けた。その意気や壮、名人の大度、フェアプレー。それは嘘だ。勝負はそんなものぢやない。千日手が絶対なら、千日手たるべきもので、それが勝負に忠実であり、将棋に忠実であり、即ち、わが生命、わが生き方に忠実なのである。名人にとつては将棋は遊びではない筈で、わが生命をさゝげ、一生を賭けた道ではないか。常に勝負のギリギリを指し、ぬきさしならぬ絶対のコマを指す故、芸術たりうる。文学も同じこと、空虚な文字をあやつつて単に字面をとゝのへたり、心にもない時局的な迎合をする、芸術たりうる筈はない。
 千日手が絶対たるべきものなら、それを避けて出た名人はフェアプレーどころではなく、将棋に忠実誠実でなかつたもので、即ち、負ける当然な性格だつた。
 往年木村名人が覇気横溢のころ双葉山を評して、将棋は序盤に負けると勝負に負ける。序盤に位を制することが名人横綱たる技術でもあるのだから、敵の声に立ち上るのは解せない、と言つた。この心構へを名人はすでに自ら見失ひ、自ら逆に双葉山の愚に化してゐた。
 元々相撲の横綱などといふものが、最も日本的な一匹の奇怪な幽霊で、その位置に上ると、もはや負けても位置が下らない、かういふ形式的な権威を設定するところに、日本的な間違ひがあつた。
 現在の将棋名人戦が最も勝負の本道で、名人、チャムピオンは常に一人、挑戦され、負ければ落ちねばならぬ。常に実力のみが権威でなければならぬ。風格の名人などとは、つまり横綱の世界で、実力なくして権威たりうるから、風格によつて地位を維持する。すると人々は(日本人は)実力よりも風格を信じ、風格があるから、偉い、といふ。
 日本の政治が、政治家がさうだ。文学まで、さうなのである。政治は政策が主要なもので風格など問題ではないのだけれども、日本では政治といふと人心シューラン術のやうなもので、敵と妥協し、商談して、まとめあげる手腕などが
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