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将棋名人戦は私のオモチャであつた。
私が特別気に入つたのは十年不敗の名人が追ひこまれてゐることだ。中には知つたかぶりか木村名人は調子に乗つてるだけで頭抜けて強いわけぢやないといつたりする人もあるが、私も将棋は知らないけれども、この十年間、名人戦ばかりでなく、その他の勝負、これといふ手合に殆ど負けてゐないのだから、調子だけでかうは行く筈のものではない。ほかの芸ごとで誰と誰とどつちが名人か、さういふ水かけ論とちがつて、碁将棋にはちやんと勝負があり、その勝負の示す戦績がケタ外れに頭抜けてゐるのだから、木村名人はたしかに強いに相違ない。
たしかに強い方が負けて追ひこまれてゐるから、私は気に入つた。
私は昔から木村名人が好きであつた。いはゞヒイキであつたのである。なぜなら木村名人は闘魂の権化の如き人物で、勝つためには全霊をあげて、盤上をのたくりまはるやうな勝負に殉ずる「憑かれ者」だと信じてゐたからであつた。
木村名人の一代前は関根名人と云つて、この人は将棋は弱かつたが、将棋がキレイで、さすがに名人の風格、などと称せられたのであつた。弱いけれど名人の風格などといふバカげたことが有るべきものではない。強いから名人、それ以外はない。
文学の方でも秋声先生の縮図などを枯淡の風格とくる。面白をかしくもない、どこと云つて心にしみる何物もあるでもない。ところがその淡々たるところが神業だと云つて、面白をかしくないから、俗ならず、高雅で、大文学だといふ。夢みたいなことを言つて、それを疑りもしないから、バカげてゐる。
然し文学の方には勝負がないのだから、私がどう言つても水かけ論だが、将棋のやうに勝負のハッキリしたものでも弱いけれども名人の風格、駄ジャレにもならない言葉が誰に疑られもせず通用してゐるのだ。
将棋の強弱は勝つための「術」によるものだ。剣術も同様、相手に勝つ術が主要なものであり、風格などは問題ではない。
兵法とか剣術といふものは乱世の所産で、是が非でも勝つため、勝たねば我身を失ふために編みだされた必然の術であつたが、太平になれると戦はずして勝つ、などいふ奇術的曲芸をより大なる兵法なりと称するに至る。
昔の剣の試合は真剣勝負だから一命にかゝはる。だから剣術や戦争は戦はずして勝つのが第一便利にはきまつてゐるが、それは曲芸的な意味ではなく、真に自分に実力があつて、戦へ
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