、どうやら人心地ついたとき、倉島竹二郎が、ヤア、しばらくだな、とはいつてきた。
私は名人戦が三対二と木村名人が追ひこまれたとき、次の勝負はぜひ見たいと思つてゐた。私には将棋は分らないが、心理の闘争があるはずで、強者、十年不敗の名人が追ひこまれてゐる、心理の複雑なカケヒキが勝負の裏に暗闘するに相違ない。私はそれが見たかつた。私は生来の弥次馬だから名人位を賭けて争はれるこの勝負を最も凄惨なスポーツと見て大いに心を惹かれたもので、死闘の両氏に面映ゆかつたが、私は然し私自身の生存を人のオモチャにさゝげることをかねて覚悟に及んでもゐるから、私自身がこの死闘に弥次馬たることを畏れてはゐなかつた。
病人のことにかまけて第七回戦を忘れてゐたから、この勝負が千日手に終つた時には喜んだもので、翌日さつそく次の勝負の観戦を毎日新聞へ申込む。許可を得たときは子供みたいに嬉しかつた。
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私のやうに退屈しきつた人間は、もう野球だの相撲だの、それがペナントを賭けたものでも、まだるつこくて、見てゐられない。臍をだす女だの裸体に近いレビューだの、見る気持になつたこともない。終戦以来、たつた一度アメリカのニュース映画を見に行つたほかは(原子バクダン)映画も劇もレビューも野球も相撲も見たことがない。見たいと思はないから。
思へば空襲は豪華きはまる見世物であつた。ふり仰ぐ地獄の空には私自身の生命が賭けられてゐたからだ。生命と遊ぶのは、一番大きな遊びなのだらう。イノチをはつて何をまうけようといふ魂胆があるでもない。
文学の仕事などといふものが、やつぱりさういふ非常識なもので、いはゞそれに憑かれてゐるからの世界であらう。芸ごとはみんなさうで、書きまくつて死ぬとか、唄ひまくつて、踊りまくつて、喋りまくつて、死ぬとか、根はどつかと尻をまくつて宿命の上へあぐらをかいてゐる奴のやることだ。
俺の芸は見世物ぢやないとか、名も金もいらない、純粋神聖、さういふチャチな根性ぢや話にならない。人様がどう見てくれようと、根は全然そつちを突き放してゐるから、甘んじて人様のオモチャになつて、頭を叩かれようとバカにされようとエロ作家なんでもよろしい、一人芝居、憑かれて踊つてオサラバ、本当の芸人なら生き方の原則はこれだけだ。我がまゝ勝手、自分だけのために、自分のやりたいことをやりとげるだけなのだから
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