人、
「考へても……」
 何か呟いたが、きゝとれない。そして、すぐ八八角成、同銀、三三角、二一飛成、八八角成、バタバタとまるで夕立に干物《ほしもの》をとりこむ慌たゞしさ。名人茶碗をとりあげて一口のんで、
「その手はどれだけ考へたつて?」
「二百五十三分。計二百七十三分です」
「ウワ」
 塚田八段右手をタタミにつき、左手膝の上、盤を見つめて六分、キュッと駒をとりあげて、七七角、打ち終つて、ウウ、セキバラヒ、打たない前と同じ姿勢でジッと盤を見つめる。いつまでたつても見つめてゐる。まだ自分の手番のやうに、眉にシワをよせ、今の手の効果が気がかりで思ひきれない様子であつたが、ふとボンヤリ顔をそらして灰皿のタバコをつゝいて煙を消して、ウ、ウンとセキバラヒをした。その時チラリとあげた目にひどく決意がこもつてゐた。
 フーッと息をして、背のびをした。塚田八段の姿勢がそのとき始めて揺れたのである。
 木村名人は上体直立、胸をはつて腕組み、口にタバコをくはへて盤上を直視してゐたが、腕組みをといて、フウワリと手がのびて、八九馬。間髪を入れず一一角成、五七桂。打ち終つて木村名人庭を見る。つゞいて、チョッチョッと舌つゞみを打ちながら、部屋のあちこちを見廻す。その目は腫れたモーローたる目である。
 塚田八段十分考へて、五八金左。すぐ五六飛、六八桂、三分考へて四九桂成、同王、五八飛成、同王、六二王。
 例の夕立に干物のバタバタバタで、私のかねての狙ひ、どこで手が変るか、その手が変つてゐたのだが、私にはそれが分らぬ。私は手を見てゐるのぢやなしに、打つ人の顔を見て、顔で判断してゐるのだが、劇的な何物もなく、たゞバタバタバタの一瀉千里、片がついてゐたのだ。五六飛の次、二十七手目、六八桂で変つてゐた。
 私は将棋が分らないから、どこで変るか、そんな見世物みたいの興味で見てゐるほかに手がないのである。加藤八投の解説によると、六八桂、今までにある手、当然の指し手で、三十八手負けの塚田八段の指し手がひどすぎたのださうだ。こつちはさうとは知らないから、どこで変るか、ウノ目夕カノ目、面白づくで打ち込んでゐて、バカを見た。
 塚田八段の長考がはじまる。ちやうど三十分すぎたとき、木村名人が記録員に、
「相撲へ行つたかい」
「ハア?」
「相撲へ行つた」
「いゝえ」
 そこで、とぎれる。名人膝をたて、手をまはして膝を抱へ
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