命を動いて行く。名人の力がその宿命をどうすることもできない。そして名人が名人位から転落しつゝある……私はその時はもう名人の顔を見るのが苦痛であつた。名人はもう駒へ指一本当てておくのが精一ぱいで、駒の方が横へ前へスースー動いてゐたのだ。どうにも仕様がないよ、名人の顔がさう語り、全身の力がくづれてゐた。あれは深夜の一時、二時頃であつたらう。
塚田八段が六分考へて三四飛、横歩を払つた。そのとき、辰巳、島田、小夜氏ら両棋士に別れを告げて立つ。手番の名人盤面から目を放してあたりを見廻し、立上つて三氏のあとを追つた。戻つてきて、
「わからないもんだなア。僕の非常に懇意な医者の家へ泊つてるんだ」
「誰ですか」と塚田八段、
「小夜さん」
十分考へて、名人五二飛、
木村名人は小夜福子に色紙を頼んできたのである。女学生の娘が小夜ファンで欲しがつてるから、喜ぶだらうな、と言つてる。塚田八段が毎日の記者に、私にも、と色紙をたのむ。
塚田八段、五十四分考へて二四飛。指すと同時に、苦笑して、
「ひどい将棋をさしちやつた。三十八手かなんかで負かされちやつた」
と呟いた。この意味は私には分らなかつた。
名人の大長考が始まつたのはその時からで、まもなく正午、休憩となる。両棋士がまづ立ち去ると、記録係の京須五段が私に、
「この手は読売の手合か何かで塚田八段が三十八手で名人に負かされてゐるのです」
と盤へ駒を動かして教へてくれた。塚田八段の二四飛についで、
五六歩、同歩、八八角成、同銀、三三角、二一飛成、八八角成、七七角、八九馬、一一角成、五七桂、五八金左、五六飛、四八金上ル、七九馬、五七金スグ、同馬、四九王、五八金、同金、同馬、三八王、二六歩、二七歩、四八銀まで、三十八手、
この時まではまことにノンビリしたものだ。これから両棋士、まつたく喋らなくなる。芝居の三氏、こんなところを見学したのは全く無意味で、芝居がハネてから、深夜に見学すべきであつた。
★
昼食が終つて、十二時五十分、再開。
名人痰をはきに立つてモーローと戻つてきて盤面を凝視してゐたが、便所へ立つた記録係が戻つてくると、ひよいと顔をあげて、魂のぬけたやうな目附でビックリ見て、それから庭に向つてア、ア、アと大あくびをした。坐り直して盤面にかがむ。
そのとき塚田八段が記録係に、
「芝居の初日つて、
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