山麓
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)びる/\
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あの頃私は疲れてゐた。遠い山麓の信夫の家で疲れた古い手を眺めてゐた、あの頃。
山麓の一人の女、信夫の奥さんと顔をあはせる。さうすると、ひつそりした山麓の空気が私の鼻先の部分だけ小さくびる/\と震え、そこに出来た小つちやな真空の中へ冷めたい花粉が溢れてきて、空気の隙間をとほり、私の耳の周りをもや/\して、こまつちやくれた秋風となつて、私の額へ癇癪と考へ深い皺を刻み消え失せていつてしまふ。私は自分の疲れを掌へ載せてみて、当惑した顔を顰め、重さのない爽やかな日が再び私にあるのかと思ひつゞけた。
信夫には健康とアイヌ族の鼻髭があつた。
信夫は毎日狩猟に行く。鉛色の鈍い重たい空。エアデルをつれて終日ひえびえとした白樺の林を通り、時折はしばたゝく時雨に濡れて、信夫は終日ひそひそと濡れた空気の隙間を歩いてくるらしい。荒涼たる白樺の林を濡れた鼻髭が静かに通つてゐるらしい。信夫は獲物をとつてきた例がなかつた。
信夫は留守、さうして物憂い白昼、私は時々どこかしら一つの部屋に、唐紙の隙間をもり廊下を漂ひ壁と空気の間に沿ふてひそ/\と流れてく奥さんの気配を感じた。まれに、遠い冬空の底から、幽かな鉄砲の音が響くのである。部屋の暗がりに、猟犬のやうに聞耳たてる一人の女。鉛色の鈍く重たい空の下で、濡れた青色にぶす/\光る二連銃の銃身を思ふ一人の女。さうして私は、ひつそりした白樺の林を静かに通る濡れた鼻髭を思ひ鼻髭の中に勝れた一人の「男」を感じ、自分の疲れをきな臭い悪臭の底に見つけてしまふ。おんなよ。もう、雪が近い。
ある暗澹とした黄昏、信夫は白樺の林を通り、裏門から築山を通つて帰つてきて、玄関へ廻らずに裏座敷の縁側へ来て、私や、出迎への女の顔を代る代る眺めながら黙つて笑ふてゐるのである、かはるがはる顔をながめ、長い間、黙つて笑ふてゐた。
漸く女が笑ひ出したとき、信夫は更に声をたて
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