どこに? 誰もいないようだが」
「イヤ。たしかに誰かがあッちへ逃げたような気がするが。……こうドシャ降りじゃア、どうも、仕方がない」
 小野はあきらめて、小さな家の戸口に立った。表戸をドンドンと叩いて、
「今晩は。大月さん。今晩は」
 二十回も戸を叩いたと思うころ、ようやく屋内で人の気配がうごいた。
「夜中に、なアに? 女の一人住いに」
「まだ夜中じゃないよ。九時に二十分前だ。これから三時間もたつと、そろそろ夜中だが」
「誰だい? 酔ッ払いだね」
「警察の者だ。ちょッと訊きたいことがある」
「警察? フン、誰だい、酔ッ払って」
「戸を開けろ。山田不二男のことで訊きたいことがある」
 にわかに小野が大音声でキッパリ云うと、屋内の女はあわてた。戸があいた。
「なんだい。小野さんか。なんの用さ?」
 三十三四の女。後家のヒサというカツギ屋である。ちょッと渋皮のむけた女。なにかと噂のたえない人物である。
「不二男が来てるだろう」
「来てませんよ」
「フン。誰とねてた? 奥の男は誰だい?」
「誰も来てやしないよ」
「ほんとか。上ッて見るぞ」
「ええ、どうぞ。あんまり人を侮辱しないで下さいよ。近所隣りがあることだから」
「御近所は、もう慣れッこだ」小野はいきなりズカズカ上りこんだ。ガラリとフスマをあけると、奥は一部屋しかないから逃げ場もない。フトンの中の男がもっくり起き上って、観念の様子。
「ヤ。鈴木か。鈴木小助クン、意外な対面。カカアに云いつけてやるぞ」
 小野は小助を見下してニヤリと笑った。この町のカツギ屋の大将格のオヤジである。
「悪いことをした覚えはないよ。とッとと行っとくれ」
「ウン。よいことをしただけだな」
 小野は皮肉を浴せたが、諦めて靴をはいた。
「一ツだけ教えてくれ。さッき不二男がここへ来たろう」
「誰も来やしないッたら」
「誰もじゃない。不二男だ。二三十分前に表の戸を叩いたはずだ」
「知らないよ。グッスリねてたから」
 小野はドシャ降りの表へでた。うしろで戸がピシャリとしまって、カギをかける音がしている。
「さッき、逃げたのが、不二男さ。奴サン、せっかく恋しい女のところへ駈けつけたのに、先客アリでしめだされ、そッと中をうかがっていたらしいや。このドシャ降りにご苦労な話さね。カツギ屋の後家なんぞ張るもんじゃないよ。カゼをひくだけだ」
 不二男に女がいるという
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