やがて、大納言は、息がきれ、はりさけそうな苦痛のうちに、天女のししあいを思っていた。痺《しび》れるようなあやしさが、再び彼のすべてをさらった。官能は燃え、からだは狂気の焔であった。彼は走った。夢のうちに、森をくぐり、谷を越えた。京の住居へ辿《たど》りついて、くずれるように、うちふした。

 翌《あく》る日。大納言は思案にかきくれ、うちもだえた。夜明けは、彼の心をしずめるために訪れはせず、恋と、不安と、たくらみと、野獣の血潮をもたらして、訪れていた。
 大納言は、笛をめぐって、一日、まどい、苦しんだ。
 この笛が地上から姿を消してくれさえすれば、あのひとは月の国へ帰ることを諦《あきら》めるかも知れない筈だということを――
 こな微塵《みじん》に笛を砕いて、焼きすてることを考えた。賀茂川の瀬へ投げすてて、大海へおし流すことも考えた。穴をほり、うずめることも考えた。だが、決断はつかなかった。
 五日の後に笛がかえると思えばこそ、あのひとは地上にいるのであろう。笛の紛失が確定すれば、天へ去らぬとも限らない。そういうことも思われた。
 あのひとを地上にとどめるためには、掌中に、常に笛がなければな
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