をうち、自分の頬をピシャピシャたたき、彼を指し、大きな口を開いて、笑った。
「ゆくえも知らぬ、恋のみちかな」
 再び、童子は、大納言の鼻をつまんだ。予測しがたい素早さである。身をかわすひまはなかった。アと思うまに、もう手をたたいて、唄っている。
 ひどく不潔な顔である。猿の目鼻をクシャクシャとひとつにまとめた顔である。そうして、顔中、皺である。動作は、甚だ下品であった。正視に堪えぬ思いがした。
 と、ひょいと童子の立上るのを見た筈だったが、そのとき童子はにやりと笑い、目も鼻も大きな口も、突然ひとつにグシャグシャちぢんだ筈だった。とたんに、するりとからだがすぼんで、童子の姿は忽然《こつぜん》地下へ吸いこまれた。一瞬にして、姿もなく、あとに残る煙もない。あとにひろがる叢の上に、この季節にはふさわしからぬ大きな蕈《きのこ》が残っていた。
 大納言は呆然として、目を疑った。彼は思わず這いよって、蕈にさわってみようとした。
 突然四方に笑声が起った。
 大納言は驚いて顔をあげたが、笑う者の姿はなかった。笑いは忽《たちま》ち身近にせまり、木の根に起り、また、足もとの叢に起った。いつか遠く全山にひろがりわたり、頭上の枝から、また、耳もとから、げたげたひびいた。
 大納言はからだの痛みを打ち忘れて、とつぜん立って、逃げようとした。然し、傷ついた全身は、咄嗟《とっさ》の恐怖にはじかれてすら、なお、思うようには動かなかった。つまずいて、立ちあがり、また、つまずいて、からくも立ちあがることを繰返すうちに、再び意識を失って、冷めたい木の根に伏していた。

 みたび我に返ったとき、山々は、すでに白日の光のもとに、青々と真夏の姿を映していた。木のまを通してふりそそぐ小さな陽射しが、地に伏した彼のからだにもこぼれていた。
 大納言は再び喉を焼くような激しい乾きに苦しんだ。谷川の音をたよりに、必死に這った。谷川は崖の下にせせらいでいた。大納言は降りようとして、転落した。岩にぶつかり、脾腹《ひばら》をうって、うちうめいた。
 草をむしり、岩をつかみ、夢中に這った。ようやく、せせらぎの上へ首を延ばすことができたとき、顔からふきだす真赤な血潮が、せせらぎへバシャバシャ落ちた。大納言は、さすがに、ふるえた。せせらぎに映る顔をみた。人の世のものとも見えず、黒々と腫《は》れ、真赤な口をひらいていた。一時に、心
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