りかけてきたのであったが、分ろうとする執着もなく、その想念をたどる気力も失われていた。視覚もかすれ、また聴覚もとざされて、つめたい闇がはりつめているばかりであった。ただひとすじに、天女のかたち、ありさまと、その悲しみのせつなさを、くらやみのうつろの果に、ありありとみた。彼の手が動くことを知ったとき、わが身のまわりに、小笛のありかをたずねてみた。手の当るあらゆる場所を、さぐり、つかんだ。そうして、絶望の悲哀にかられた。
 喉がかわいて、焼くようだった。ひとしずくの水となるなら、土もしぼって飲みたかった。彼は夢中に這いだした。そうして、ようやく、谷川のせせらぐ音を耳にした。
 大納言は、谷音をたよりに、這った。横ざまに倒れ、また這い、また、倒れるうちに、ようやく視覚も戻ってきたが、谷音は、右にもきこえ、左にもきこえ、うしろにもきこえて、さだかではなかった。風のいたずらでなければ、耳鳴にすぎないのかも知れなかった。あらゆることが絶望だと彼は思った。
 大納言は、木の根に縋《すが》って這い起きたが、歩く力はまったくなかった。彼は木の根に腰を下して、てのひらに顔を掩《おお》うた。死ぬことは、悲しくなかった。短い一生ではあった。酔生夢死。ただそれだけのことだった。然し、そのことに、悔いはなかった。ただ、あの笛をあのひとに返さぬうちは、この悲しみの尽きるときがない筈だった。彼は泣いた。ただ、さめざめと。
 と、鼻さきに、とつぜん物の気配を感じて、大納言はてのひらを外し、その顔をあげた。すぐ目のさきの叢《くさむら》の上に、ひとりの童子があぐらをくんでいるのである。たしかに童子にまぎれもないが、粗末な衣服を身にまとい、クシャクシャと目鼻の寄った顔立は、大人、いや、むしろ老爺のようである。髪の毛は河童《かっぱ》のように垂れさがり、傲慢に腕を組み、からかうような笑いを浮べて、すまして顔をのぞいている。視線が合ったが、平然として、ただ、しげしげと顔をみている。
「ゆくえも知らぬ――」
 と、童子は大きな口をあけて、とつぜん唄った。ひどく大きな口だった。そのせいか、目と鼻が、更に小さくクシャクシャ縮んで、かたまった。
 大納言は、びっくりした。と、とたんに童子は猿臂《えんぴ》をのばして、大納言の鼻さきを、二本の指でちょいとつまんだ。
「恋のみちかな」
 童子は下の句をつけたした。そうして、手
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング