、大馬鹿、大嘘の話である。
 文学などゝいうものは大いに俗悪な仕事である。人間自体が俗悪だからで、その人間を専一に扱い狙うのだから、俗悪にきまっている。
 面白いものを書こう、とか、大いに受けたい、とか、それでよろしいではないか。作家精神だとか「如何に生くべきか」だとか、そういうものは我が胸に燃やすだけでよいもので、他にひけらかす必要はない。誰にも見せる必要はなく、人にそれを知らせなければならないというものでもない。
 アンリ・ベイル先生は「余の文学は五十年後に理解せられるであろう」と云って、事実五十年後より流行し、生前はあまりはやらなかったという。ポオは窮死し、啄木は貧困に苦しんだ。
 然し貧乏などゝいうものは一向に深刻なものではない。屋根裏の詩人ボードレエルは、シャツだけいつも汚れのない純白なのを身につけて、そんなことは要するに子守唄、いや鼻唄さ。潔癖などゝいうものではない。ボードレエル先生は陽気であった。
 世に理解せられざることは、文学のみならんや、人すべての宿命ではないか。人はすべて理解せられることを欲し、そして理解されてはいないのだ。否、私自身が私自身を知らないのだ。
 理
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