、大馬鹿、大嘘の話である。
文学などゝいうものは大いに俗悪な仕事である。人間自体が俗悪だからで、その人間を専一に扱い狙うのだから、俗悪にきまっている。
面白いものを書こう、とか、大いに受けたい、とか、それでよろしいではないか。作家精神だとか「如何に生くべきか」だとか、そういうものは我が胸に燃やすだけでよいもので、他にひけらかす必要はない。誰にも見せる必要はなく、人にそれを知らせなければならないというものでもない。
アンリ・ベイル先生は「余の文学は五十年後に理解せられるであろう」と云って、事実五十年後より流行し、生前はあまりはやらなかったという。ポオは窮死し、啄木は貧困に苦しんだ。
然し貧乏などゝいうものは一向に深刻なものではない。屋根裏の詩人ボードレエルは、シャツだけいつも汚れのない純白なのを身につけて、そんなことは要するに子守唄、いや鼻唄さ。潔癖などゝいうものではない。ボードレエル先生は陽気であった。
世に理解せられざることは、文学のみならんや、人すべての宿命ではないか。人はすべて理解せられることを欲し、そして理解されてはいないのだ。否、私自身が私自身を知らないのだ。
理解せられざることは、たしかに切ないかも知れぬ。私もせつない時は、あった。然し、文学者、芸術家が、特に、ということはない。人間すべて同じこと、それだけのことではないか。
私は四十年、一向にはやらない小説を書き、まさに典型的な屋根裏詩人(私は三年間本当に屋根裏に住んでいたこともある)牧野信一自身が夜逃げに及んだり、一家そろって居候をしているというのに、その居候のところへ私が居候に行って、居候の居候というのは珍しい。けれども非常に居心持のよいものだ。そうだろう。先様が居候なのだから、身につまされて、又居候をいたわること甚大だからである。居候をするなら、居候のところへ居候するに限るものだ。然し、実際、牧野信一ぐらい居候を大切にし、いたわった人はない。豊島与志雄先生が、そういう点で牧野さんに似ているような気がする。豊島さんは僕に言う。君、遊びにきなさい。真夜中に。行くところがなくなった時。そう言うのである。こういう風に言わねばならぬ豊島さんは淋しい人だ。本性はよくよくタンデキ派に相違なく、放浪者に相違ないので、牧野さんも豊島さんも、ハイカラで、気どりやさんで、ダンディで、極度に気が弱い。けれども私は決して深夜に豊島さんを叩き起さないのは、生命にかゝわるからで、先生はガバと起き、碁盤をもちだし、私がどんなに疲れていても、夜が明け、日が暮れるまで、かんべんしてくれないことが分りきっているからである。
牧野信一は真夜中に中戸川吉二を叩き起して、中戸川に絶交を申し渡されたことがあったが、私は真夜中に叩き起されて怒る人はきらいだ。尾崎士郎はこの正月、原子バクダンなる猛酒(伊東産、ブタノールという奴)に前後不覚になって、折から伊東の旅館に疎開中の幸田露伴先生を叩き起し、先ず踊りを披露に及んだのち、日本で一番偉い小説書きは露伴先生及びかく申す拙者であると太鼓バンを捺して証明に及んで帰ってきて、翌日恐縮して嘆くこと嘆くこと。然し、嘆くなかれ。それでよろしい。露伴先生は大人物だから、深夜に叩き起されて駄ボラを吹かれて怒る筈はない。露伴先生は後日訪れた人に向って、尾崎士郎という先生は猫をかぶっているという話だが、元々猫ではないか。してみると、虎をかぶっているとすると、虎かな、と言ったそうだ。愉快々々。
僕が尾崎士郎先生とどういう因果で友達になったかというと、今から凡そ十年、いや二十年ぐらい前だろう、私が「作品」という雑誌に「枯淡の風格を排す」という一文を書いて、徳田秋声先生をコキ下したところ、先輩に対する礼を知らない奴であるとフンガイしたのが尾崎士郎で、竹村書房を介して、私に決闘を申しこんできた。場所は帝大の御殿山。景色がいゝや。彼は新派だ。元より私は快諾し、指定の時刻に出かけて行くと、先ず酒を飲もうと飲むほどに、上野より浅草へ、吉原は土手の馬肉屋、遂に夜が明け、又、昼になり、かくて私は家へ帰ると、血を吐いた。惨又惨。私は尾崎士郎の決闘に打ち負かされた次第である。
先輩に対する礼を知らん奴だ、という。全く小説書きは馬鹿げたことを言う。長脇差みたいなことを言う。ソクラテスをやっつけると、プラトンだのアリストテレスがコン棒もって御殿山へ乗り込むのさ。先日太宰治をひやかしたら、彼は口惜しがって、然し、あんたは先輩だから、カンベンしてやる、と仰有《おっしゃ》った。全く愉快千万。小説書きという奴は、かくの如くトンチンカンで、妙チキリンに古風で、首尾一貫していない。トンマなことばかり喋っているので、だから、書くものだけを読むのさ。本人は魂のぬけがらだ。
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