りや命をすてゝみせると考へたり、ふだんヂメヂメしてゐちや、いざ鎌倉といふ時に元気がでるものか、といふ考へは、我々が日常尤も口にしやすい所である。僕など酒飲みの悪癖で、特に安易にこのやうな軽率な気焔をあげがちなのである。
けれども、この考へは、現に我々が死に就て考へはしてゐても、決して「死に直面して」ゐはしないことによつて、そも/\の根柢に決定的な欺瞞がある。多分死にはしないだらうといふ意識の上に思考してゐる我々が、その思考の中で、死の恐怖を否定し得ても、それは実際のものではない。
講談、浪花節はとにかくとして、このやうなテーマも、各人の厳格なモラルとして取扱はねば意味をなさぬ文学の領域に於ては、単に軽率な思考とだけでは済むことではなく、罪悪である。世道人心に流す害悪といふ意味よりも、文学の絶対の面に於て、余りにも悲惨な「通俗」であるといふ意味に於て。
戦争に、死に、鼻唄はない。ドイツが強い一因は、それをはつきり意識して戦争してゐるからであらう。味方の兵士も死を怖れてゐること、それをはつきり意識してゐる。敵に「死の絶望」を思はせること、この心理的欠点をつくこと、それが重大有効な武器
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