て、美しく、立派であった。
 歌舞伎の女形のヤマサンは、常に身だしなみよく、かりそめにも、衣服をくずしたことはない。然し、無慾の点については、三平に似ていた。二人の魂は、無のどん底に坐りついていたのである。それを、まことの淪落とよぶべきであろうか。ヤマサンの場合は、古典芸術できたえあげた教養、環境と、二十という年齢からきた造化の妙があったようだ。
 昨年、私が、折あしく病人をかゝえて病院へ泊りこんでおり、外出の不自由なとき、思いがけず、ヤマサンから手紙をもらった。戦争中は自分のようなものにも徴用ということがあって、センバンを握り、手もふしくれて、油にまみれて働いた、国にお務めをした、というような、落ちついて澄んだ心のうかゞわれることが、タド/\しい文字で綴られており、今、宗十郎門下にいて、青年歌舞伎にでているから、見物してくれ、と書いてあった。行って見たいと思いながら、思うにまかせず、いまだに再会していない。
 ヤマサンが、私に掻きくどいた言葉は、
「先生にお仕えしたい」
 という、たったそれだけの表現であった。古典芸術の伝統の中で育って、まだ二十のヤマサンは、古典の品位を身につけており、かりそめにも、ミダラではなかった。たゞ、うるんだ目で、私を見つめ、悄然として、私の側をはなれない。
 男色を妖怪じみたものにしか解さぬ私に、その有様は笑止であったが、然し、お仕えしたい、という言葉にこもる己れを虚《むなしゅ》うした心事には、胸を打たれずにいられなかった。
 たしかにヤマサンの心事はそれが全部で、わが身を虚うして仕えるほかに、打算も取引の念もなかった。
 それも亦、三平の、あのふるさとに似ていた。
 私も己れを虚うし、己れの意志に反して、ヤマサンに同化し、この珍妙可憐な妖怪にかしずかれて暮そうか、と考えたこともあったのである。考えざるを得なかったのだ。私には、心棒がなかった。なにも分るものがなかったのだ。
 私がそれを敢てしなかったのも、そんな逃げ方をするぐらいなら、死ね、死んでしまえ、という声を、耳にしていたからだった。
 死んではならぬ、と、考えつづけた。なぜ、死んではならぬか、それが分らぬ。
 何をすれば、生きるアカシがあるのだろうか。それも、分らぬ。ともかく、矢田津世子と別れたことが、たかが一人の女によって、それが苦笑のタネであり、バカらしくとも、死の翳を身にしみつけてしまったのだ。
 新しく生きるためには、この一人の女を、墓にうずめてしまわねばならぬ。この女の墓碑銘を書かねばならぬ。この女を墓の下へうめない限り、私に新しい生命の訪れる時はないだろう、と思わざるを得なかった。
 そして、私は、その墓をつくるための小説を書きはじめた。書くことを得たか。否、否。半年にして筆を投じた。
 そして私が、わが身のまわりに見たものは、更により深くしみついている死の翳であった。私自身が、影だけであった。そのとき、私は、京都にいた。独りであった。孤影。私は、私自身に、そういう名前をつけていたのだ。
 矢田津世子が、本当に死ぬまで、私はついに、私自身の力では、ダメであった。あさはかな者よ。哀れ、みじめな者よ。



底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文学界 第二巻第九号」
   1948(昭和23)年9月1日発行
初出:「文学界 第二巻第九号」
   1948(昭和23)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月26日作成
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