、わかるよ。先生は、まだ、とらわれているんだ。オレみたいな、才能のない奴が、何を分ったって、ダメなんだ。先生に分って、そして、書いてもらいたいんだ。旅にでれば、必ず、わかる。人間の、ふるさとがネ、オヤジもオフクロもウソなんだ、そんなケチなもんじゃないんだ、人間には、ふるさとが有るんだ。慾がなくなると、ふるさとが見えるものだ。本当に見える。オレと一しょに旅にでて、木賃宿へとまって、酒をのんで、歩いて、そして、先生にも、きっと見える」
 三平の眼は気違いじみて、ギラ/\光ってくるのであった。
「先生、今日は先生にオゴリにきたよ。たまには、三平の酒をのんで下さい。そのつもりで、ゆうべ、よけい稼いだんだ」
 私をオゴルよけいな稼ぎは、一円五十銭、一円二十五銭、いつもそれぐらいなハンパな金で、蟇口《がまぐち》のない三平は、それを手に握って私を訪ねてくるのであった。彼のオゴリは、新橋のコップ酒か、本郷の露店であった。
 時たま私が彼を小料理屋へつれて行く。どうせ私の行く店だから、最も安直な店であるのに、彼はどうしても店になじめず、
「オレは、高級な店はキライだ。オレは、然し、たゞ酒をのめばいゝ、というんじゃないよ。高級らしいものほど、オレにとっては、みすぼらしい、ということなんだ。高級は不潔だよ。人間らしくないんだ」
 話の筋が通るうちはいゝけれども、酔っ払うと、こんな店はキライだ、と怒りだして、店のオヤジと喧嘩になって、追いだされてしまう。
 私はもとより、三平の云う素朴なふるさとに安住できるものではない。然し、三平と一しょに村々の木賃宿を泊り歩いてみようかと思うことは時々あった。どうしても、それが出来なかったのは、それぐらいのケチな逃げ方をするぐらいなら、死ぬがよい、という声をいつも耳にしていたからだ。
 偉そうに、ほざいてみても、だらしがないものだ。私は矢田津世子と別れて以来、自分で意志したわけではなく、いつとはなしに、死の翳が身にしみついていることを見出すようになっていた。今日、死んでもよい。明日、死んでもよい。いつでも死ねるのであった。
 こうハッキリと身にしみついた死の翳を見るのは、切ないものである。暗いのだ。自殺の虚勢というような威勢のよいところはミジンもなく、なんのことだ、オレはこれだけの人間なんだ、という絶望があるだけであった。
 その年の春さきに、牧野信一が、女房の浮気に悩んで、自殺した。たかが女房の浮気に、と、私は彼をあわれみながら、私自身は、惚れた女に別れたゞけで、いつとなく、死の翳が身にしみついているというテイタラクである。たかが一人の女に、と、いくら苦笑してみても、その死の翳が、現に身にさしせまり、ピッタリとしみついているではないか。みじめな小ささ。いかにすべき。わがイノチ。もがいてみても、わからない。
 三平のほかに、私の部屋を時々訪れてくる男。これを男と云うべきや。ヤマサンというオヤマであった。
 ヤマサンは私の行きつけの新橋の小料理屋の食客であった。左団次の弟子の女形で、当時、二十であった。みずみずしい美少年で、自分では、私は女優です、と名のり、心底から、女のつもりであった。
 私はヤマサンに惚れられていた。執念深い惚れ方で、深夜に私のもとへ自動車をのりつけ、私の身辺を放れない。あいにくなことに、私には男色の趣味がない。色若衆といっても、これほどのみずみずしい美少年はまたとあるまじと思われるほどのヤマサンに懸想《けそう》されて、私は困却しきっていた。
 私はその晩、たまりかねて、一計を案じ、ヤマサンと共に、深夜に車を走らせて、友人を訪ねた。むごいことをしたものだが、私の方は、ヤマサンの妖怪じみた執念を逃げたいばかりに、必死であった。その友人の友だちに男色の男がいて、近所に住んでいることを、きいていたのだ。この男色先生をよんでもらい、男色先生とヤマサンを置き残して、私と友人は脱けだして、夜明しの飲み屋で酒をのんだ。そこから電話をかけてみると、ヤマサンが電話にしがみついて、助けて下さい、殺されそうです、と悲鳴をあげていた由で、そのことがあってから、ヤマサンも狂恋をつゝしみ、大いに慎んで私に接するようになった。
 その後のヤマサンは決して夜間は訪れず、昼、踊りや唄の稽古の帰りに、立寄った。ちょうど私の部屋の下に、知人の美学者が居り、特に日本の古典芸術を専門にしている人であったから、ヤマサンを紹介した。ヤマサンと二人だけで坐っているのが堪えがたかったからである。その後は、ヤマサンは私の部屋に長坐せず、よい折に立って、下の美学者を訪ねて、神妙に古典芸術の講話を拝聴し、又、自分の専門の芸については、美学者の問いに慎しみ深く答えていた。そういうヤマサンは、態度あくまで、凛々しく、慎しみ深く、なよやかな肩に芸の熱意が溢れ
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