ことだ。講談は語る人の性格があんまり出ない。フランス風の写実は、語り手の性格が出すぎて、事物の実体をくらまし易いと思つた。
 近頃の例で言へば何々参謀談といふ作戦談のやうなものがそれで、あそこにも語る人の性格は失はれ、事実そのものが物語るやうな力になつてゐる。
 僕がこのことに具体的に気がついたのはスタンダールの小説を読んだときで、スタンダールが、いはゞ、外国的講談口調の語り手なのである。スタンダールは描写や説明といふことを、やらない。
 日本の講談には語り手の性格がないやうに、語られてゐる人物にも性格がない。善玉悪玉の型があるばかりである。これは演者の教養や観点が固定してゐるからで、かういふ最悪の欠点は学ぶ必要がないけれども、然し、之を逆に言ふと、スタンダールも型だけしか書いてゐないのだ。
 だが、スタンダールは常に創作し、進歩する。新らしい型が生れてゐる。之だけが講談と違ふ。尤も、これ一つ違ふだけで、月とスッポンの違ひになる。
 講談それ自体は馬鹿らしいものだけれども、我々は、どこから何を学びとつても、値打には変りがない。
 講談は自分が歴史を見てきたやうに語つてゐる。「まことに困
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