しいものだけれども、我々は、どこから何を学びとっても、値打には変りがない。
講談は自分が歴史を見てきたように語っている。「まことに困った奴でございます」とか「こう言いながら蔭で赤い舌をペロリと出しました」などと実に心易いもので、私がちゃんと見てきたのだから、文句は言わずに、信用しなさい、という立前なのである。
小説の技法に大切なのは、事実性、説得力というもので、之には色々の技術がある。或いは作者の感傷に托して事実性を維持しようとしたり、こくめいな描写によって実感を盛り上げようとしたり、様々だ。各※[#二の字点、1−2−22]、作者その人の身についた技法があるから、良し悪しは一概に言われぬことで、自分の方法を身につけることが第一であろう。
僕が講談の方法を面白いと思ったのは、之又僕流の考え方で、僕はそれで良いのだと思っている。
講談の語り方、私が見てきたことだから信用しなさい、という語り方によると、第一、目が物が本質から離れず、小さなことに意を用いる必要がないという、大変手数の省略があり、この省略は、手数を省くばかりでなく、テーマをはっきりさせる。
我々に必要なのは語り方ではなくて、何事を語ったか、ということであるが、語り方がなければ、語られる物はなく、語り方が変れば、語られる物も変る。語っているようにしか考えられず、又、事物は在り得ない。小説の実在性というものには、それだけの絶対性があるのである。
小説の技法などというものは、言い現わし難いもので、自ら会得する以外に仕方がない。小説家は、常に小説の中で全てを語りつくすべきもので、僕が今、講談に就て語ったことも、意をつくしてはいないし、又、つくそうとも思っていない。ただ、講談の口調をややとりいれて小説を書いているのは本当だが、講談というものを特別意識しているわけでもないのである。ただ、講談という言葉を一つとりあげたから、こんな風な文章になっただけの話である。この小説は、もう三ヵ月ぐらいで出来上ります。
底本:「坂口安吾選集 第五巻小説5」講談社
1982(昭和57)年6月12日第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第六巻第三号」
1943(昭和18)年2月28日
初出:「現代文学 第六巻第三号」
1943(昭和18)年2月28日
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:小林
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