とを示していた。つまり実務家の中でも一かどの老練家という風格を語っていたのである。
折から選挙たけなわの時であるから、私はふと気がついた。差出人は誰かの選挙事務長かも知れない、と。とにかく応援演説のネタ本用に火急の必要にせまられているものと睨んだのである。「野坂中尉と中西伍長」が政治家の演説に利用されていることを、かねてきき及んでいたから、サテハ、と看破したのである。
応援弁士というものは、たいがいアルバイトで、にわかにタネ本を物色して、三十日間打ってまわるものであるが、「野坂中尉と中西伍長」はアルバイトの弁士用には便利である。共産党を適度に皮肉って、十人のうち七人ぐらいナルホドと思わせるようにできている。アルバイトの弁士は、共産党爆撃を熱演すれば必ずうけるという時世であるから、共産党以外の弁士のかなり多くの人が、この巷談を愛用したものと推察されるのである。
そこで共産党の文学青年(こう断ずるのは彼らの筆蹟が弟子入りのそれと同じように中途半端だからであるが)が怒ったのだろうと思う。選挙たけなわとなるや、安吾殿、安吾ヨビステ、が殺到するに至ったのだ。
巷談の反響はこのときから、はじまった。
その先月は松谷天光光女史の事件について憎まれ口をたたいたが、労農党や民主党は法律を重んずること厚く、言論の自由にインネンをつけることをしなかった。
もっとも、筆者のところへは来なかったが、雑誌社へインネンをつけてきた形跡はある。これは私の推理で、確証があるわけではない。文藝春秋新社は意外にも紳士淑女のたむろするところで、礼節の念は嫩《ふたば》より香《かんば》しく、かりそめにも筆者に激動を与えるような饒舌をもらさない。しかし私は抜群の心眼をうけて生れ、その推理眼は折紙づきであるから、こうと睨んで狂ったことはない。微妙な証拠は多々あげることができるけれども、他人の機密にふれるから黙っておくことにする。
しかし、私には言論自由のルールがハッキリのみこめないが、筆者には自由であり、雑誌社に自由でないというワケが、甚しく分らない。書いた責任は全部筆者にあって、もしもこれを雑誌社が載せないとなると、原稿料は先にふんだくられているし、筆者には怒られるし(彼の図体は大きい)よいところがない。かの巷談師は、かの雑誌社が、長すぎた原稿を二枚けずったカドによって絶交状をたたきつけた前歴もあり、アイツはウルサイぞ、ということになっているのである。
そんなわけで、共産党文学青年の総反撃をうけるまでは、私の巷談は坦々と物静かな道を歩いていたのであった。
私を「巷談師」とよんだのは、冒頭に録した一共産党青年のハガキで、私自身の命名ではない。私はしかしこの呼称を愛している。なんとなく私にふさわしいような気持だからである。
今年は巷談師であるが、去年までは観戦屋であった。
観戦屋というのは、よろず勝負ごとを見物して、観戦記をかく商売である。これに似たのに、覆面子とか北斗星とかノレンの古い老練家がいるが、彼らは私とちがって、ダテや酔狂(ヤジウマ根性ということ)で観戦記をかいているわけではなく、腕に覚えの特技によって心眼するどく秘奥を説く人々である。観戦士というべし。私のは、ハッキリ、観戦屋。
私は腕に覚えがない。だから、よろず勝負ごと、顧客のもとめに応じて好みのものを観戦する。将棋名人戦、本因坊戦、スポーツ万端、よろず、やる。
私は将棋の駒の動き方を知ってるだけだ。いつか読んだ将棋雑誌の某八段の説によると、こういうのを六十二級というのだそうだ。唯識《ユイシキ》三年|倶舎《クシャ》七年と云って、坊主が倶舎論を会得するには七年かかるそうであるが、これは人間の意識を七十五の名目に分類し、分類が微細にすぎてチットモわからず、七年かかることになっている。
将棋の方は、六十二級の上に九段があって、合計七十一。倶舎論に四ツ足りない。名目だけでも、将棋はすでに難解である。
私はそのドンジリ、六十二級というのに位置している。上位の七十の名目は、むなしく望見するだけで、まったく会得することが不可能であり、又の名を「三歩」というのだそうである。
六十二級を碁の場合に当てはめると、初段に六十二目おくことになる。そんな碁はない。しかし、ありうるのだ。勝負ごとの初心者ぐらい哀れなものはない。心眼をとぎすましても、わからない。心眼の持ちくされだから、私のような心眼の徒は、いたずらに心眼の曇ることもなく、ただ悲しまねばならない。
だから六十二級の私が名人戦の観戦記をかくと、心眼が復讐しているようなものだ。将棋は見ていても、分りッこない。勝負だけがわかる。そして、それを見る。
つまり、仇討ちの見物人に分るのは、仇討のイワレ、インネン、双方のイデタチ、武者ぶりの観察からはじまっ
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