をたしかその時めぐらしたやうに思ひ出されるのであつた。しかし龍然はまるで何でもない顔付で、女衒の存在にさへ気付かぬやうな物腰でやり過してしまつたから、凡太はほつとして、これは龍然は女衒の顔を知らぬのかしら等と考へながら上の杉並木を洩れる空模様を仰いで息を吸つた。するといきなり耳もとで、さつと風を切る激しい音がした。
「女衒はよくないぞ!」
 龍然は坂の下をぢつと睨んで直立してゐたが、鋭く張つた四角な肩に激しく息を呑む気勢が感ぜられた。凡太も坂下の方を見下すと、叫ぶよりも前に龍然の手から投げられてゐた下駄が、女衒には当らずに、一本の杉の幹に痛々とした跡を残して、尚ころころと一二間ころげて止まるのが見えた。女衒は腰を浮かせて逃げかけたが、龍然の気配に追求のないのを見てとると、卑屈にねちねちした度胸を見せて、知らぬ顔を粧ひながら麓の方へすたすた降りていつた。流石にその日龍然は、息の乱れを収めてもとの顔付にもどるまで十数歩の歩行を要したが、それも収まると、また超然とした残骸に還元して、一方の足は跣《はだし》にしたまま長い坂道を傾きながら歩いた。凡太は何とも言へぬ寂漠を感じて、君、足は痛まないの
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