く占領してゐた。凡太はそれにぢつと浸りながら、本街道に沿ふて平行に流れてゐる暗い嶮しい間道を伝ひ、ひつそりと音の落ちた山を二つ越えてから本街道へ現れてみると、もう黒谷村の家並を遠く通過して、熊笹ばかり繁茂した黒谷峠のただ中へ、間もなく迷ひ込むばかりの、そんな地点に当つてゐる憂鬱な杜だつた。凡太はいそがわしく廻れ右をして、今度は本街道伝ひに黒谷村へ戻りついたが、恰も長い長い歴史の中を通過してきたかのやうに感じながら、居酒屋の灯を見出してそれを潜つた。居酒屋の女中も盆踊りにまよひ出て、ほの暗い土間の中には老婆が一人睡ぶたげな屈託顔をしてゐたが、凡太は二階へ通らずに、一脚の卓によつて酒を求めた。
「もう若い者はいつこうに踊りに夢中でして――」と、老婆は黒谷村に不似合な世馴れた笑ひを浮べながら、この村では出稼ぎの女工達も踊りたいばかりに盆を待ちかねて帰省するが、なぞと語つた。凡太はむやみに同感して深くうなづいてみせた。此処へ来て酒を掬むに、あの甘美な哀愁はなほ身辺を立ち去ることなく低く四方に蹌踉し、むしろその香わしい震幅を深くするやうに感ぜられた。彼はこの旅に出て以来《このかた》といふもの、こ
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