をたしかその時めぐらしたやうに思ひ出されるのであつた。しかし龍然はまるで何でもない顔付で、女衒の存在にさへ気付かぬやうな物腰でやり過してしまつたから、凡太はほつとして、これは龍然は女衒の顔を知らぬのかしら等と考へながら上の杉並木を洩れる空模様を仰いで息を吸つた。するといきなり耳もとで、さつと風を切る激しい音がした。
「女衒はよくないぞ!」
 龍然は坂の下をぢつと睨んで直立してゐたが、鋭く張つた四角な肩に激しく息を呑む気勢が感ぜられた。凡太も坂下の方を見下すと、叫ぶよりも前に龍然の手から投げられてゐた下駄が、女衒には当らずに、一本の杉の幹に痛々とした跡を残して、尚ころころと一二間ころげて止まるのが見えた。女衒は腰を浮かせて逃げかけたが、龍然の気配に追求のないのを見てとると、卑屈にねちねちした度胸を見せて、知らぬ顔を粧ひながら麓の方へすたすた降りていつた。流石にその日龍然は、息の乱れを収めてもとの顔付にもどるまで十数歩の歩行を要したが、それも収まると、また超然とした残骸に還元して、一方の足は跣《はだし》にしたまま長い坂道を傾きながら歩いた。凡太は何とも言へぬ寂漠を感じて、君、足は痛まないのかと訊いてみるにも言葉はもはや不用なものに考へられ、胎内に充満してくる空虚を味得した。
 もう山は秋が深い。それは、昼の明るさが尚寂寥に堪えがたくて、ひたすら死滅へ急ぐもののやうにしか考へられぬ蝉の音の慌ただしさや、已にいそがわしく遠い空に走り初めた幾流れもの雲や、そしてぽつかりと空洞《うつろ》に落ちたこの明るさ――ひとまづこれで、ぱつたりと杜絶する生活力の断末魔《あごにい》が山といふ山に、路に、藁屋根に、目に泌みるリズムとなつて流れてゐる。女衒もすでに黒谷村を去つて、沈滞した村の軒からは、何か呟く呪ひの声が洩れてくるもののやうに感ぜられた。そして龍然は、物置から埃まみれな草履を一つ探し出して、下駄とちんばにこれを突つかけながら、黒い法衣を秋風にさらし、流れはぢめた雲の慌ただしさに狂燥を感ずるものの如く、村の法用に山門をいそがしく往来してゐた。凡太はぢつと帰ることを考へた、いやむしろ、立ち去つた後の黒谷村の侘しさを、恰かもそれが永遠に自分の棲まねばならぬ運命の地であるかのやうに、呆然と思ひやる日が多かつた。
 もう九月に這入つた一日、凡太はいよいよ出立した。その未明、まだ明け切らぬ黒谷
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