はずみか、大変まぢめに端座して「僕は気狂ひではありません」とごもごも答へてからはぢめて我に返つたが、女はその声にはまるで構はず、左手をまずべつとりと床板につき下して重心をそこへ移しながら、崩れるやうに腰を落して両足を投げ出した。
「今晩は。はぢめてお目にかかりましたね」
「今晩は。はぢめてお目にかかりました」
「龍然は留守でせう――?」
「今夜は帰るまいと思ひます。御存知ですか?」
「出掛けるとき、さう教へに来ましたから――」
「ああ成程――」と凡太は当然なことに暫く慚愧《ざんき》して耳を伏せたが、つらつら思ひめぐらすにこれは当然慚愧するには当らない根拠があると気がついた。龍然は今朝早く使ひを受けると、特別に支度を必要としない男のことだから、已に魂は遠く無しといふ骸骨にポクポクと跫音をひびかせて、すぐさま山門から空間の方へ消失してしまつたが、あの姿で女のところへ留守を知らせに立ち廻るほど繊細な精神を含蓄してゐやうとは、これは実際奇蹟であり不合理であり驚愕であり滑稽であり、――そして、考へてみれば胸にこたへてくるものがあつた。凡太は長嘆息を噛み殺して白い顔をした。
「龍然は妾《わたし》をずい分可愛がつてゐますわ」
「さうですね。そのやうに見えますね。僕は友達といふのは名ばかりで、ろくすつぽ話もしたことがないのですし、同じ寺に寝起きしてゐても二三日顔を合はさずに暮すことさへよくあるくらいですから、あの男に就ては実際のところ何も知つてゐないのです」
「龍然は、でも、あんまり悧巧な男ではありませんわね。冷たくて冷たくて、時々ぼんやり何か考へごとをしてゐてやり切れないのです。妾を可愛がるのもいいけれど、とにかくさういふ気持を自分で反省するとき淋しい自己嫌悪を感じるのは苦痛だから、可愛くても可愛いいというふうに思ふのは厭だ厭だと言ふのですわ。それでゐて気狂ひのやうに劇しく妾を抱くのです。龍然の淋しい気持は妾にも大概分りますけれど、表へ出す冷たさが妾にはあき足らないのです。龍然は莫迦野郎ですわね。龍然はほんとうに莫迦野郎ですから、妾は別れる気持になりました――」
「ははあ……それは今朝のことですか――?」
「いいえ、ずつと昔からですわ。でも、ほんとうに決めたのはたつた今しがたなんですわ。村に女衒が来てゐるのです。三月と盆は女衒の書き入れ時ですから。妾はずつと昔にも一度女衒に連れら
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