其処にだけ一塊の喚声が群れてゐて、それをすつぽりと包んだ、一面の暗闇はただしんしんとするばかり、その喚声のすぐ周囲でさへ、耳を澄ませども見えるもの聴えるものは無いからだつた。やがて暫くして、深い谷音ばかりはつきり耳についてきた。――これは、凡太が黒谷村へ足を踏み入れた第一日の印象だつた。居ついてみると、一見平凡な黒谷村も、変に味はひのある村だつた。
黒谷村は猥褻な村であつた。気楽な程のんびりとした色情が、――さう思つて見れば、蒼空にも森林にも草原にも、だらしなく思はれる程間の抜けた明るさを漂はしてゐた。凡太は一日、山の段々畑をいくつか越えて何気なく足を速めて逍遥してゐると、穂の間から上半身をあらわした若い農婦がだしぬけに顔をあげて、健康な(HALLOO!)を彼の背中へ叫びかけた。凡太は丁度山嶺に片足を踏みかけてゐたので、ふりかへると遠くはるかな風景が、その中へ農婦の姿をも点描して深々と目にしみてきた。彼は壮快を感じて元気一杯な(HALLOO!)を返しながら山の裏側へ消え込んでしまつたが、考へてみると一つ足りない気持があつた。その夜、その話を龍然にしてみると、果せるかな、これは夜這ひへ誘ふ黒谷村一般の招辞であるといふのだつた。さう言はれてみれば、ある日のこと、尾根伝ひに国境へ通ふ風景の良い路で、蕨《わらび》を乾してゐる娘から明らかに秋波を送られた経験もあつた。その後凡太は、色々の場所に色々な様式で、之と同じ事情に幾度となく遭遇した。しかしそれは、猥褻と呼ぶには当らない、むしろ透明とか悠久とか、そんな漠然とした親密な名辞で呼ぶにふさわしい程凡太の胆に奥深く触れて来るものがあつた。其は単に隠されてゐるものを明るみへ曝したといふばかりで、むしろ徹底した気楽さが、たとへば振り仰ぐ空の明るさのやうに、坦々として其処に流れ、展開してゐるにすぎない。一年の半《なかば》は雪に鎖され、残りの半《なかば》さへ太陽を見ることはさして屡《しばしば》でないこの村落では、気候のしみ[#「しみ」に傍点]が人間の感情にもはつきり滲み出て来るのだつた。夏も亦|一瞬《ひととき》である。あの空も、あの太陽も、又あのうらうらとした草原も樹も。……さういふ果敢無《はかな》さが慌ただしい色情の裏側に、むしろうら悲しくやるせない刻印を押してゐるやうに思はれて、物の哀れとも言ふべきものが、侘しく胸に泌みて来るばか
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