じように、サイダーをのみ終えてから、云った。
「去年の十月はじめごろ、二十円のカタにセーターをぬいで渡した釣人を覚えていないかね」
その瞬間にまさしく野村も見たのである。木戸の云った例の四五桂と同じものを見たと思った。むろんそれは野村にとっては四五桂ではない。また木戸があるいは真剣勝負の剣客のスキのないきびしさと云ったものともややちがう、それは世の常の人のものとはちがっていた。驚愕がないのだ。そして、怖れがないのだ。そこに溢れているものは怒りであり、逞しい闘志であった。いわば全てが一途にはりきったきびしい気魄のみであって、その裏側にあるべきはずの驚きや怖れが欠けているのだ。いわば無智の象徴と云うことができるかも知れぬ。敵のみを知りうる無智。闘うことを知るのみの無智。木戸がその顔に四五桂を見てそれが読み切られた四五桂であると確信したのは、極端に無智な闘魂に負けたからではあるまいかと野村は思った。この顔から急所の四五桂を見てとるのはむしろ無理だが、殺人を感じたことは肯きうるかも知れないと野村は思ったのである。
「そのセーターを返してもらいにきたわけじゃアないがね」
と野村は笑って云った。
「実はね、おききしたいことがあるのだが、例の和服に袴をはいた若い先生がその後ここへ来なかったかね」
「そんな奴は来ないよ」
と娘はブッキラボーに答えた。
「来たと思うんだが……」
「来ないと云ったら来ないんだ。逆らうわけでもあるのかい。いまごろセーターをとりに来たってありやしないよ。あきらめて、早くおかえり。かえれよ」
「それは失礼した。いくらだね」
「茶代もいれて三十円」
「十円の値上げだな」
「二度とくるな」
まるでもう丸太ン棒のような文句で叩き出されてしまったのである。ミコや占いという品格ある客商売もやってるそうだがそのときはどの種の言葉遣いを用いるのかと、野村はそぞろ興を催したほどであった。
野村は娘に横溢している陰鬱な殺気が気がかりになった。もしも木戸が再びここを訪れてその第一感にからまる疑惑を明らかにした場合、そしてその疑惑が的を射たものであった場合、木戸の運命がどういうことになるかと考えてみたのである。
そこで野村はその足で木戸の対局を主催した新聞社の支局を訪れ、その間の事情について心当りになるような出来事がなかったか尋ねてみた。
「その対局はいつでしたか」
「昨年十月の六七日です」
「さっそく調査して御返事しましょう」
翌日、電話で返事がとどいた。
「茶店のオヤジサンは対局の翌日病死しておりますね」
「他殺ではないのですか」
「いえ、明らかに病死です。医者の証明がありますから。その医者は警察医でもありますから、まちがいはありません。娘が病気の父親を大八車につんで、まだ夜明け前に医者へ連れてきたそうです。そのときはまだ息があったそうですが、病院へかつぎこまれて五分か十分で死んだそうです。つまり、あなたが御覧になった戸締りの家は、その留守中に当るわけです。十月八日の出来事ですから。次に木戸六段の件ですが、茶店の娘は現在若い男と同棲しているそうです。この男の姓名はどこへ問い合わせても不明でしたが、この土地の者でないことは確実です。木戸六段と関係があるかどうかは知りませんが、同棲はオヤジサンの死後の出来事で、ちょッとインテリ風、都会風の二十一二の青年だというのです。もっとも、この人物が将棋をさしたかどうか誰も知っておりませんがともかく茶店の娘と若い男との交渉でいままでに私の方に判明したのは以上のことだけです」
木戸が娘の顔に読んだ四五桂の謎は狂っていたのである。しかし、とにかくその日人が死んでいたことは当っていたのだ。野村はちょッと神秘的なものを感じて、木戸のために祝福したい気持になった。
「娘と同棲している若い男は、木戸かも知れない」
野村はそう考えた。木戸が再び茶店を訪れた際に、狙いの謎は外れていたが、人死にだけは当っていたと判った場合に、同棲というコースをたどると仮定するのはやや無理筋に類しているが、人生、意外はつきものだ。とにかくその男を一見してみなければ気持がおさまらなくなったのである。娘の荒々しいのにはヘキエキだが、オヤジの死が娘の手によるものでない限りはオレのイノチも無事だろうと野村は心をきめて出発した。
山上へ登りきると、うまいぐあいに裏手の畑で働いている男の姿を認めた。彼のセーターをきて野良をたがやしているのである。茶店の前をよけて畑へまわり、男の前へ立ってみると、まさしく木戸ではないか。木戸は彼を認めると、落ちつきはらって、笑った。さすがに勝負師のずぶとさであった。
「きのうお見えの噂をうけたまわっておりましたよ。よくわかりましたね」
「キミの奥方のカンバセにボクも四五桂を読んだのでね。もしやという
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