ところにマヂメさができたり、神聖奇怪な化け物となつてしまつたのである。
文学には定まつた型はないから、形式は何でも構はぬ。私小説はいけないといふ規則はない。身辺雑記のやうなものでも文学はありうる。俳句も短歌も文学でない筈はない。
日本人は然しなぜかくも偏狭なのだらうか。自ら私小説家と号したり、一方では私小説だけをよしと云ひ、一方ではフィクションだけを文学だといふ。
外国にも二行詩も三行詩もあるが、たゞ、二行詩だけしか作らぬ詩人、三行詩だけしか作らぬ詩人、そんな詩人はゐない。俳句も短歌も文学でない筈はない。然し俳人だの歌人などといふのが妙で、詩人であればよい。文学者であればよい。けれども自由詩の詩人は自由詩だけが詩だといふ。そういふキュークツな精神では、自由詩の自由によつてあべこべに自分を縛り空虚な形式を自由の名に於てデッチあげ空転するだけのことで本当の詩、文学は生まれる筈はないだらう。
そして又、俳句だけしか作らぬ俳人、短歌だけしか作らぬ歌人、本当の歌声こそが詩の本質であるのに、十七字や三十一字の形式だけをひねくり廻して、奥儀をとく。俳句の奥儀、短歌の奥儀、そんなものは有るべきぢやない。詩の奥儀がすべてゞ、俳句も短歌も詩であるから文学であり、その詩声(ウタゴヱ)によつて読者の魂につながる、文学が詩がさうである如く、俳句も短歌もさうである以上に何があらうか。
文学は型をきめて判断してはいけないものだ。一般読者は文学の理論などに患はされず虚心に読み、自分の心にふれるものだけに惹かれるといふ読み方だから却つて正しく小説の心にふれてゐることが多く、批評家や文学の専門家は型にきめて判断するから作者の魂にふれることが少いものだ。色々の文学がある。人間が種々様々である如く様々で、あらゆる人の文学などといふものはなく、ある人に愛され、ある人に嫌はれる。それでいゝではないか。ラムプにはラムプの効用があり、椅子は椅子の効用によつて存在する。このラムプは腰かけることができないといふのは暴論だ。
特別日本の文学者批評家の珍論は、この小説は面白いから不マヂメだといふ。面白さ自体には不マヂメなどあるものぢやない。作者の思想や魂が不マヂメだといふことはある。然し面白さが不マヂメだと云ふ人々は、たぶん涙はマヂメで笑ひは不マヂメだと思つてゐるに相違ない。然し涙はマヂメなものでも誠実なもの
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