だけ必要なもので、大衆は決して原語によつて読まねばならぬ必要もなく、原語でなければ分らぬ性質のものでもない。すべてを現代語で読ませる方が、むしろ大衆に「言葉を読ます」、文学を文学として鑑賞し、思想を思想として読ましめ、真実の教養を与へることゝなるのである。分りきつたことではないか。これくらゐ分りきつたことが日本の学校教育の根本に欠けてゐるのだから、日本人の知識教養の地盤がすでにナンセンスで、従つて日本在来の常識伝統、まつたく不健全、矛盾きはまるものだ。
綜合雑誌などいふものはこの不健全な学問的情熱から現れた妖怪変化の一匹で、枕の草子や源氏物語の一端を原書で読まされて言葉の解釈だけで悪戦苦闘して後援つゞかず全然枕の草子も源氏物語も文学として鑑賞しなかつたくせに、その無駄に就て疑ることも知らず、学問はさういふものだと思ひこんでゐる知識人が、そのマニヤックな好学精神によつて知識教養とは読んでも分らぬところに尊厳がある、高遠なるものだ、有りがたいものだ、そんな程度の心がけで、拝読したり陳列したり、そして疑ることがない。綜合雑誌は日本好学精神の生きた見本で、衒学空虚、まことに悲しい存在である。
菊池寛は偉いところがあつた。彼が発案した文藝春秋といふ綜合雑誌は知識とは分らせ読ませ理解させなければムダにすぎぬものと知つた魂の所産で、各方面の相当な知識を面白く読ませ分らせる、さういふところに眼目があつたに相違ない。文藝春秋と朝日グラフは私の好きな雑誌の型だ。
知識は読ませ分らせなければムダにすぎないもので、端坐、ネヂハチマキ、机に向つて読まなければ分らない、それ以外に法がないなら仕方がないが、書き様や表はし様で寝ころんでも読めるやうに工夫のできるものなら、寝ころんで分るやうにした方がいゝ。それは知識の尊厳を傷けることにならないばかりか、知識を万人の物とする尊い工夫であり努力である。これも亦尊敬すべき戯作精神の一つであり、わが思想に自信があり万人のものとしたい一念があれば、自ら戯作者たらざるを得ないであらう。
綜合雑誌の空虚にして不健全、しかも狂的に情熱的な好学精神が、おのづから文学を歪めてきたに相違ない。即ち文学からも戯作性は拒否せられ、全然ユーズーのきかない深刻空虚な献身性が文学の支柱となり、学問同様文学も亦ねころんで読めないやうなところに尊厳ができたり、ユーモアを解さぬ
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