、こんな風に言つたかと思ふと、次の瞬間には突然血の気が失せてしまつて、畜生め、どないしてくれたら腹の虫が納まることやら……顔がひきつり、歯が顔の下半分にニュッとひろがり目が吊りあがつてしまつてゐる。女郎に売りとばすぐらゐではとても/\我慢が出来ぬ。もつと残酷に仕返してやらなくては腹の虫が納らないと親父にとも僕にともなく呟いてゐる。
 動物の本能に属するところの信仰、祈り、さういふ世界であつた。いはゞ僕はこの方面に不具者だから、戸惑ひするばかりで、てんで太刀打ができなかつた。一時の逆上が落付けば、各々の考も変るであらう。そこで双方の気違ひめいた逆上が納るまで暫く娘を二階に起居させること、両親といへども一切二階へ上らぬことにきめた。
 けれども、こんな約束は何にもなりはしなかつた。話がすんだので、僕はさつそく昼寝を始めてウト/\してゐると、主婦が跫音《あしおと》を殺して二階へ上つてきた。忽ちヒーヒーといふ風音のやうな悲鳴が起り、必死に争ふ気配だけれども、格闘の物音は小さく、呼吸の響が狂暴である。痛い。痛い。痛。といふ娘の声がポキン/\材木を折るやうな鈍い間隔を置いて聞えてきた。仕方がないので寝床から立上つて隣室へでかけた。
 僕は呆然、たゞ見物以外に手の施しやうがなかつた。主婦は馬乗りになり、娘の髪の毛を引きむしり、又、身体の諸方を(或ひは特定の一ヶ所であつたかも知れぬが)力一杯つねつてゐる。骨身に徹して痛む急所と見えて、満々たる敵意を見せて怖れを知らなかつた娘が、歯を食ひしばり、きれ/″\に風のやうな息のみを洩して、もはや身もだへの力もなく痙攣してゐるのである。女同志の真剣な掴み合といふものを始めて見たのであつたが、めくら滅法ぶんなぐる、さういふものとは根柢的に趣きが違ふ。日頃喧嘩に就ての訓練などは全然しないくせに、本能的に相手の急所を知悉してをり、いつたん掴み合ひが始まると無役な過程は何もなく、いきなり相手の急所へ本能的に突撃するといふ動物性の横溢した立廻りのやうであつた。
 数年前、僕は田舎に住んでをり、この時も昼寝の最中であつたが、すぐ窓のそばの梅の木の上に突然蝉の悲鳴が起つた。むなしい羽の風音が悲鳴に交つてきこえる。蜘蛛《くも》の巣にかゝつたのだらうと思ひ、昼寝の邪魔だからひとつ逃がしてやらうと思つて顔を出したら、驚いた。カマキリが梅の木の上で、油蝉を羽交締にしてゐるのである。背に乗り、後ろ首の一ヶ所に食ひついてゐる。そこは急所と見え、蝉は次第に気力を失つてゐるのであつた。一緒に地上へ落ちたが、羽交締は微動もしない。僕は呆れてしまつた。蝉の方がよつぽど大きく、筋骨逞しい様子のくせに、カマキリの奴生れ乍らにして蝉の急所まで心得てゐる。動物といふ奴は端倪すべからざる怪物だと思つたが、親子喧嘩を見てゐると、食堂の主婦はまつたくカマキリであつた。
 ハヽヽヽヽヽといふ、突然部屋に爆風のやうな哄笑が起つた。娘である。腹の底からこみあげてくる、いや、全身がひとつの爆風に化したといふ哄笑である。気がふれた――さういふ単純な意味だけではとても説明はつかない。もつと腹の真底から愉快千万だといふ哄笑であつた。おまへの一番大事なものをなくしてやつたぞ。どうだ。思ひ知つたか。ざまを見ろ、といふハッキリした意味があつた。えゝこれでもか、これでもか、と歯をくひしばつて、主婦はもはや完全な気違ひである。突然頭へ手をやつて縮れ毛の頭からピンを抜きとつて逆手にもつ。その手を掴んで僕は逆にねぢあげた。蹴飛ばすやうな勢ひで、やうやく主婦を階段の下へ追ひ降したのである。主婦も下へ降り、誰もゐなくなつてからも、娘の哄笑は五分間ぐらゐは止まらなかつた。娘の部屋へ行つてみると、馬乗りになつてゐた母親の姿だけを取去つたゞけで、あとは全然さつきと変らぬ。仰向けにねて、部屋一杯にこもる爆風をたてながら、左右に身をうねらせてゐるのであつた。
 その翌日の夕方、親達が弁当の配達にでた隙に、自分の着物一包みを持つて、娘は本格的に姿をくらましたのである。

 娘が始めて家出したとき、親父が上つてきて、先生、済んまへんこつちやけれどもどないか探す手掛りおまへんかと言ふ。僕はそのとき病気であつたし、病気でなくとも不良少女の行方など探す気持にはなれなかつたので、この食堂の二階座敷が碁会所になつてをり、そこへ来る常連に特高の刑事で俳句をつくるおとなしい人がゐたから、その人に頼んだらよからうと言つた。けれども親父は僕の部屋をまるで自分の知らない家のやうなびつくり眼《まなこ》で見廻したり、窓から比叡の山々を生れて始めてのやうに眺めたり、先生、あの山になんや赤い物が見えまんなア、なんやらうな、ほんまに……などゝ言つて、僕がウンと言ふまではいつかな動かない。仕方なしに娘の手紙一山、まつたく一山、
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング