孤独閑談
坂口安吾
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)荒《すさ》ぶ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年中|駻馬《かんば》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ブツ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
食堂の二階には僕の外にノンビリさんと称ばれる失業中の洋服職人が泊つてをり、心臓と脚気が悪くて年中額に脂汗を浮かべ、下宿料の催促を受けて「自殺したうなつた」かう呟きながら階段を降りたり上つたりしてゐたが、食堂の娘の家出に就て、女学校の四年生に弁当の配達をさせるのがいけないのだ、と非常にアッサリ断定した。路で友達に逢うたら羞しうて気持の荒《すさ》ぶ年頃やさかい、かう言ふ。女学校へあげるくらゐなら竈の前でこき使ふのは構はないが、弁当箱をぶらさげて配達に使ふのは甚だ宜しくない。だから不良少女になつたのである、といふ意見であつた。成程、人各々自分の生活から掴みだした一家の考察があるものだ、と僕は感心した。
娘は十七であつた。不良少女と言つても、大それたことの出来る年頃ではない。生意気ざかりで、ちよつと軌道の外れたことをしてゐるといふ程度であつた。気立てのよい娘で、ひねくれた所はなく、たゞ愛情に非常にあこがれてゐた。特別な親子の関係のせゐであつた。
娘は食堂の主婦の姉の子であつた。三つぐらゐの時に主婦が貰つてきたのである。いつたい本当に可愛がつてゐるのだか、どうだか、僕には一向に見当がつかぬ。家出した娘をたうとう見つけだして掴まへて来たとき、男があるかどうか、もう処女ではなくなつたかどうか、それを僕に突きとめてくれと言ふのである。娘はその前にも一度、家出した。そのときは喫茶店でひそかに働いてゐた。親の家にゐるのが、どうしても厭だと言ふのである。そのときは、然し、なんなく事が済んだけれども、今度の場合は、娘の態度がもつと決定的なものを示してゐた。父親母親にハッキリした敵意を見せてゐる。娘は親のきくことに一言半句の返事もしない。けれども全身に自信満々たる敵意が溢れてゐるのである。かういふものは、何か外の場所に、充分拠りどころのある愛情の対象をもたなければ、決して生れるものではない。涙一滴流さずに何か深く決意を見せて無言の行をつゞけてゐる娘に手を焼いて、僕の所へ頼んで来たのであつた。
処女? その言葉をきいた時に、僕はびつくりした。その言葉に含まれた動物的な激しい意味が閃いたからである。それは男の僕が女を対象に眺めて云々した場合の「処女」といふ意味とはまるで違ふ。たゞ専一に親だけが子供に祈つてゐる「処女」であつた。何か信仰のやうな激しい祈りが感じられて、子供を持たない僕には思ひも寄らない唐突な言葉であつた。人間の中の一番動物的なものを感じたやうな気がしたのである。人間はやつぱり動物だ。こんなにも本能的な信仰を含んだ神秘が実在してゐる。――僕はびつくりして二人の親を眺めたが、思ひもよらず眼前へ出現した二人の動物を呆気にとられて眺めたと云ふ方が当つてゐる。
僕は万やむを得ず娘を僕の部屋へよんで訊いてみた。男は立命館の予科の生徒で山口といふ名前だと云つた。殺されてもこの家にはゐません、と娘は言つたが、たしかにそれだけの決意をしてゐた。
僕はこの通りのことを親に報告した。隠しても仕方のないことであらう。あれぐらゐ家を厭がつてゐるのだから、縁がないのだと諦め、娘を手離した方がいゝ。僕はさういふ風に僕の意見をつけたすことを忘れなかつたが、親達はそんな言葉はてんで聴いてゐなかつたのだ。報告をきかされたとたんに、二人の親、動物、の思考がまつたく途切れてしまつたのである。二人の親はジロリ黒い目を見合せた。
「早うに、女郎に売りとばしたら良かつたなア」
親父が言葉を洩らしたが、主婦は返事をしなかつた。多分、親父はその瞬間に今喋つたゞけの事柄しか考へることが出来なかつたに相違なく、主婦は又、余りに多く様々の恐しい想念が浮びすぎて喋ることが出来なかつたに相違ない。
親父は子供に対して非常にアッサリした一つのことしか考へてゐなかつた。もともと主婦の姉の子で、親父には血のつながらぬ娘である。だから、愛情などは二の次にして、育てた代りには、老後の面倒を見て貰ふ、親子関係は極めてアッサリとたゞそれだけに限定してゐた。どこの馬の骨や分らん男にやつてしまふたら損やないか、ほんまに阿呆な目に逢ふたもんや、親父は頻りにブツ/\言つてゐる。損、といふ、異常に執拗な観念が鬼のやうに親父の頭の中を狂ひ廻つてゐるのが、分つた。
「分りました。ほんまに先生、お世話様のことゞした。もう、諦めますわ。何もかもこれで済んでしもうた。アヽヽ。ほんまに、えらいこつちや」
主婦は苦笑しながら
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング