不良少女に比べると女優の方が大根ですなア、と嘆いてしまつた。京都にはその年までフグ料理が禁止されてゐたが、四条寺町に始めて一軒できた。その晩僕達はそこへ始めて這入つて、一番死にさうな所を食はしてくれなどゝ酔ひつぶれた始末である。
 結局、僕には、この親子の愛情の実相といふものが、今もつて分らぬ。なんとも断定することが出来ないのである。家族の一人がゐなくなる。旅行にでゝ居なくなつたといふだけでも、五体の一角が欠けたやうな寂寥が目立つものである。ところが、この食堂のたつた三人家族の一人娘が家出したといふのに、その脱け落ちた空虚とか寂寥をどうにも僕は嗅ぎだすことが出来なかつた。ほんまに、あないな阿呆な奴でも、あいつが居なうなつたら、なんや、張合がなうて……と主婦はこぼしてゐる。もう、えゝわ。そないな話、やめとき……親爺が苛々と言ふ。それはたゞ泌々《しみじみ》と、一人娘の家出のあとの風景なのである。微塵も人に見せるための芝居ではなく、一人娘の家出の暗さが歴々漂ふ風景であつた。――ところが、それですら、僕には矢張り一人の家族が脱け落ちた大きな空虚と寂寥を泌々同感することが出来なかつた。
 この食堂の親爺夫婦が正真正銘の夫婦であるといふことを信じる迄には相当の時間が必要であつた。親爺は六十三だけれども、七十三、いやもつと老けて見える。五尺に足らない小男で、前歯が落ち、脱け残つた歯が牙のやうに大きく飛びだし、顔中黒々と太い皺《しわ》で、その中にトラホームの目と鼻がある。年中帯をだらしなく巻き、袖で洟《はな》をこすりながら、弁当の配達に歩いてゐる。街を歩いてゐる時は左程でもないが、自宅へ辿りつくとグッタリ疲れてしまふらしく、食堂の内部ではウヽウヽウヽと唸りで調子をとりながらうろつき廻り、新聞だの煙草だの部屋の中の離れた場所にあるものを取りに出掛けて行く時には、坐つた場所から這ひはじめて、又這ひ戻つてくるのである。
 主婦の方は四十三。これは年齢相当の年配に見えて、然し親爺に比べると、どうにも娘としか思はれぬ。却々《なかなか》の美人、身の丈は五尺四寸以上、姿はスラリと綺麗だけれども、髪の毛が赤い縮れ毛で、クワヰのやうに結んでゐる。年中|駻馬《かんば》の鼻息でキイ/\声をふりしぼりながら、竈の前で親爺をこき使つてゐるのである。顔も姿も綺麗だけれども、痩せてゐる胸のあたりは女の感じではなかつたし、動作にも、気質にも優しさがなく、そのくせ、最も頻繁にウチ女やよつてに、とか、気が弱うて、とか、凡そ飛んでもない述懐を本気で泌々こぼしてゐる。薄気味悪くなるのであつた。
 この二人がどういふ因縁によつて同棲を始めたのだか、僕はハッキリ知らないが、昔、主婦がどこかの売店で売子の時分、親爺が熱を上げて口説き落したのだと云ふ。当時親爺には妻子と立派な店舗があつたが、それをみんな投げだして、この商売を始めたのである。その頃は人並以上の情熱児であつたであらうが、その面影はもはや一切残つてゐない。残つてゐるのは醜悪な老躯ばかりで、死損ひといふ感じが全てゞあつた。
 この食堂の二階座敷の碁会所の常連や食堂の馴染客は、親爺に面と向つて死損ひだと言ふのであつた。棺桶に片足突つこんで置いてからに、却々いきをらんで。ほんまにシブトイ奴ッちやないかいな、と、一日に一度ぐらゐは誰かしら斯う言ふのである。さうして、後は引受けるよつてに、早うに死んだらどうかいな、と冷やかしてゐる。言ふまでもなく冗談である。悪意どころか、お前の女房は美人だといふお世辞のつもりであるかも知れず、こんなに羨しがつてゐるのだからお前の果報を喜べといふ好意のつもりであるかも知れぬ。然し、実際親爺が死んだらどういふ事態になるであらうか。伏見の石屋といふ豚のやうな肥つた男が、一ヶ月に一度づゝ酒を飲みにやつてくる。十五年ぐらゐ、かうして確実に一ヶ月に一度づゝ見廻りにくるのである。その日は朝から深夜まで十五六時間ゆつくり飲んで、親爺がまだ死なゝいことを見届けて帰つて行く。すると又、稲荷山へ見廻りにくる香具師《やし》の親分といふのがあつて、時々子分をひきつれて威勢良く繰込んでくる。主婦は俄に化粧を始め、外のお客は一切奥座敷から締めだされる。親分が酔つ払ふ頃になると子分は帰つてしまひ、親爺も二階の碁席へ引下がる。親爺は押黙り、異常な速度で傍目もふらず碁を打つてゐる。あゝ、又、例の客だな、と常連達は忽ち察しがつくのであつたが、誰も同情する者はない。全然気にかける者もない。この親爺が世にも不似合な女房をもち、その結果斯ういふ事態にならなかつたら、その方がこの世の不思議といふものだ、とみんなが思つてゐるのである。
 然し、親翁が死んだら……多分、主婦自らが最もそれを希つてゐたに相違ないが、然しながら実際親爺が死んだら……主婦とても
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