してゐるのである。背に乗り、後ろ首の一ヶ所に食ひついてゐる。そこは急所と見え、蝉は次第に気力を失つてゐるのであつた。一緒に地上へ落ちたが、羽交締は微動もしない。僕は呆れてしまつた。蝉の方がよつぽど大きく、筋骨逞しい様子のくせに、カマキリの奴生れ乍らにして蝉の急所まで心得てゐる。動物といふ奴は端倪すべからざる怪物だと思つたが、親子喧嘩を見てゐると、食堂の主婦はまつたくカマキリであつた。
 ハヽヽヽヽヽといふ、突然部屋に爆風のやうな哄笑が起つた。娘である。腹の底からこみあげてくる、いや、全身がひとつの爆風に化したといふ哄笑である。気がふれた――さういふ単純な意味だけではとても説明はつかない。もつと腹の真底から愉快千万だといふ哄笑であつた。おまへの一番大事なものをなくしてやつたぞ。どうだ。思ひ知つたか。ざまを見ろ、といふハッキリした意味があつた。えゝこれでもか、これでもか、と歯をくひしばつて、主婦はもはや完全な気違ひである。突然頭へ手をやつて縮れ毛の頭からピンを抜きとつて逆手にもつ。その手を掴んで僕は逆にねぢあげた。蹴飛ばすやうな勢ひで、やうやく主婦を階段の下へ追ひ降したのである。主婦も下へ降り、誰もゐなくなつてからも、娘の哄笑は五分間ぐらゐは止まらなかつた。娘の部屋へ行つてみると、馬乗りになつてゐた母親の姿だけを取去つたゞけで、あとは全然さつきと変らぬ。仰向けにねて、部屋一杯にこもる爆風をたてながら、左右に身をうねらせてゐるのであつた。
 その翌日の夕方、親達が弁当の配達にでた隙に、自分の着物一包みを持つて、娘は本格的に姿をくらましたのである。

 娘が始めて家出したとき、親父が上つてきて、先生、済んまへんこつちやけれどもどないか探す手掛りおまへんかと言ふ。僕はそのとき病気であつたし、病気でなくとも不良少女の行方など探す気持にはなれなかつたので、この食堂の二階座敷が碁会所になつてをり、そこへ来る常連に特高の刑事で俳句をつくるおとなしい人がゐたから、その人に頼んだらよからうと言つた。けれども親父は僕の部屋をまるで自分の知らない家のやうなびつくり眼《まなこ》で見廻したり、窓から比叡の山々を生れて始めてのやうに眺めたり、先生、あの山になんや赤い物が見えまんなア、なんやらうな、ほんまに……などゝ言つて、僕がウンと言ふまではいつかな動かない。仕方なしに娘の手紙一山、まつたく一山、
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