いふのであつた。
 要するに、この男は、異常にしんねりむつつりとして、人の神経が分らぬくせに、神経質でオド/\し、あらゆる点でノンビリしてはゐないのである。無学な人が創りだした渾名でも、渾名といふものは大概|肯綮《こうけい》に当つてをり、人を頷かせる所があるものだ。ところがノンビリさんに限つて、凡そ人に成程と思はしめる所がない。してみれば、この渾名をつけた人が、余程、どうかしてゐるのだ。つまり、この渾名にも、それ相当の理由はあつて、しかもその唯一の理由のために他の属性は全く掻き消され顛倒されてしまつてゐる。それほども強く、唯一の理由が、その人々の人生観の大根幹を為してゐるのだ。即ち、食堂の主婦と親爺は、たつた一つの大根幹が人生の全てゞあつて、他の属性はどうでも良かつた。さうして、この若者がどうしてノンビリさんと称ばれるに至つたかと言へば、下宿の支払ひがノンビリしてゐる、といふ、唯この一つの理由からであつたのである。
 然しながら、収入のないノンビリさんが支払ひをノンビリするのは仕方がなかつた。彼は、まだ、京都で働きたくはなかつたのだ。故郷で今しばらく病を養つてゐたかつたのだ。母と叔母が勝手に手紙で打合して、布団と一緒に、荷物のやうに送り出されて来たのであつた。のみならず、主婦ともあらう女が、どうして、この事態を予想したであらうか。言ふまでもなく、儲かることを打算してゐたに相違ない。姉とか、父母といふ関係ですら、打算を外に考へることはない筈だつた。してみると、彼女の姉が、更に一枚、上手《うわて》の役者であつたのだらう。気の毒なのはノンビリさんで、食事のたびに口前の催促され、お櫃の蓋をあけるたびに、主婦が血の気の失せた横目の顔で睨んでゐる。わしア、もう、自殺したうなつた。と、彼はさういふ風に呟くのだつた。
 この時、関さんは親切だつた。彼は翌日、ノンビリさんをうながして、主人の所へあやまりに行つた。その翌日には、彼が一人で、出掛けて行つた。それでも駄目だと知ると、又、翌日には、リヤカーにノンビリさんの荷物を積んで帰つてきた。クヨ/\せんかて、よろし。ようがす。必ず、いゝ口見つけてあげますさかい。関さんは勇気をつけた。さうして事実、十日に一度ぐらゐづゝ、いや、一ヶ月に一度ぐらゐかも知れないが、ノンビリさんの口を探しに行つたのである。無論、むだ足にすぎなかつた。関さんは果して口を探したらうか。知合ひの隠居の所へ押かけて、碁でも打つて来たのかも知れぬ。
 日支事変が始つた。京都の師団も出征する。師団長も負傷した。親爺の生れが聖護院八ツ橋であることは前にも述べたが、親爺は家督を譲つた代りに自分の倅《せがれ》に(この倅は主婦の子供ではない)八ツ橋製造の権利をもらつて、聖護院とはマークの違ふ八ツ橋を作らせてゐる。この八ツ橋を軍需品として師団へ納めることになつたのである。倅は大変な鼻息だ。自分の生母を棄て、女と走つてしがない暮しに老いこんでゐる親爺を扱ふに下僕のやうだ。親爺は主婦への面当てから、それを倅の出世のやうに喜んで、下僕のやうに扱はれながら顧問のやうに相好くづしてゐるのである。ところで、ついぞ来たこともない親爺の家へやつて来てどういふ用事があるかと思へば、師団へ納める八ツ橋の箱をつめてくれ、と言ふのである。ボール紙の小箱へつめて、十銭だか、十二銭だかで納めるのだが、この箱づめが一箱一厘、即ち十箱一銭、で百つめて、やうやく十銭といふ賃銀だ。冗談も休み/\言ふがいゝ、今時八ツの女の子でも、こんな仕事はしないであらう。一箱つめるにも角があつたり何かして相当骨が折れるのだ。ところが、親爺は二ツ返事で承知した。安いも高いもないのである。倅の出世に大喜びだし、ノンビリさんと関さんといふ有閑人士が二人ゐるから、十銭の金がはいるだけでも喜ぶ筈だと思つたのだつた。
 トラックが袋小路の入口へ横づけになり、寝間と茶の間に八ツ橋の山が築かれ、関さんもノンビリさんも召集される。然し、関さんは二十つめると、二階に客が来ましたさかいに、と逃げてしまひ、ノンビリさんは物の五ツとやらないうちに、うち、朝からなんや気分が悪うて、貧血が来さうやさかい、と、これも二階へ逃げのび、布団を被つて、ねてしまつた。それ以来、ノンビリさんは全然八ツ橋に手をださず、関さんは親爺にくどく言はれた時だけ、十ぐらゐづゝやりかけて、客があるとか、今日は外に用があるとか言ひつくろつて逃げてしまふ。あんたはん、まだ八十や。たつた八銭やないか、と言はれ、は、その金は貰はんといゝさかい、差上げますわ。冷然とかう言ひ放つて、二階へ上つてしまつた。関さんも甚だ意地が悪いのだ。勿論、このやうな安価な仕事をお為ごかしに押しつけることが悪い。然し、悪意は、親爺にはなかつたのである。果せる哉、倅が自動車を乗りつけ
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