注がず、座布団すらも出してやらない。常連はそれでもなんとか自分でするが、知らないお客は、いつまでたつても一人ぽつちでボンヤリしてゐる。関さんが手頃な相手を物色してくれないからである。勢ひ常連の数がふへない。
席料は一日十銭、会員は一ヶ月一円だつた。安いといへば大安だが、稲荷界隈では何から何まで安いのだ。結局常連の会費だけが収入で、一ヶ月二十四五円の上りしかなかつたやうだ。上り高が増さないから、親爺と主婦は大ぼやきだ。関さんが三杯目の御飯を盛ると横目で睨み、二杯目ぐらゐの御飯しか御櫃の中へ置かなかつたり、関さんは身体の動かん商売やさかいに等と頻りにチク/\何か言ふ。すると常連が一勢に呼応して、サービスが悪い、勝つても負けても態度が悪どい、井戸端会議の騒しさだ。どん底には辛抱だの思ひやりはないのである。我儘で、唯我独尊、一杯の茶のサービスが人格にかゝはる問題だつた。
関さんは忽ち拗ねて、今度は、座布団をだし、お茶を注ぐのを専一にやりだし、決して碁の相手にならぬといふ一人ストライキをやりだした。相手のないお客が、関さん、どうや、と言つても、いゝえ、わたしはあきまへん。お茶を注がんならんさかい。これがわたしの役目どす。かういふ風に答へる。さうして、青筋をたてゝ、ふくれてゐる。益々お客の評判が悪い。
先生が色々と言ふてくらはるよつてに辛抱もしてみましたけど……関さんは僕の所へやつてきて、もう、とても我慢がならないからほかの口を探してくるといふのであつた。さうして、前後二度、ほんとに勤め口を見つけだして姿を消した。然し、二度ながら、四日目には、もう、戻つて来たのだ。主婦が僕の部屋へやつてくる。朝のうちだ。僕をゆり起して、ほんまに先生、お休みのところを済んまへんこつちやけれども……とブリ/\しながら、ふと二階に物音がするから上つてみたところが、関さんが戻つてゐて、掃除をしたり、碁盤をふいたりしてゐる、と言ふのであつた。いゝぢやないか。戻つて来たのなら、おいておやり。僕は布団を被つてしまふ。午《ひる》頃起きて階下へ行くと、関さんは甲斐々々しく襷などかけ、調理場の土間にバケツの水をジャア/\ぶちまけて洗ひ流し、ついでに便所の掃除までしてゐる。ふだんなら、碁席の掃除まで怠けて、拭掃除など決してやらぬ人なのだ。
一度は伏見の呉服屋へ番頭につとめてゐたのださうだ。番頭も大袈裟だ。多分、下男とか風呂番ぐらゐの所だらうが、関さんの話のまゝに取次ぐとかうなのである。そこの娘が女学校の五年生だが、いくらか白痴で、然し素敵な美人ださうだが、関さんに色目を使つて仕方がない。これが女中だとか、娘にしても出戻り娘とか何とか薹《とう》のたつた女ならとにかくとして、四十三にもなつて、女学生の主家の娘と通じることは良心が許さぬ。ある晩、娘が誰よりもおそく風呂にはいつて、折から関さんが何も知らずに風呂の戸をあけると、裸体の娘がおいで/\をしてゐた。あんまり露骨なる情感に堪へられなくなつて、逃げだして来たのだと言ふ。
二度目は友禅の小工場主の私宅であつた。そこの主人は四十がらみの未亡人だが、お経の用でもなく若い坊主を繁々家へ引込むといふ噂の女で、関さんに今夜忍んでこいといふ目配せをした。まさかに、と思つてゐると、そこが便所への通路でもないのに、夜更けに関さんの部屋の廊下を往復する。勤めて二日目といふのに何が何でも早すぎるとその晩は行かずにゐると、翌日、未亡人の態度が突然変つて出て行けがしにするので、ゐたゝまれなくなつて戻つて来た、と言ふのであつた。
関さんの話は万事がかうだ。もとより当になりはしない。けれども、常連の一人々々をつかまへて、一々この話をきかせてゐる。無論、僕にも、親爺にも、主婦にもだ。関はん、えらい又、色男のことやないかいな、と冷やかされても、ヘッヘッヘ、いや、どうも、と喜んでゐる。作り話だらうとでも言ひだす人があらうものなら、青筋を立てゝしまふのである。いえ、そんなことあらしまへん。坐り直して、顫へながら相手を睨み、ほんなら、行つて、きいてみておいでやす。誰が一々呉服屋へ行つて、あなたの家の白痴の娘が……ときかれるものか。恰《あたか》も、生存の根柢を疑られ、おびやかされたといふ激怒であつた。
然し、碁会所にしてみれば、こんなに厭がられ、出て行けがしにされながらも、結局、関さんがなければならぬ人だつたのだ。何人が誇りなくして生き得ようか。関さんとても、誇りはあつた。しかも、あらゆる人々が、関さんの誇りを一々つぶしてゐるのである。さうして、あらゆる人々が関さんに求める所は、要するに、自分と対等の位置に立つな、碁会所の奴隷になれと言ふことだつた。その報酬は、たゞ寝室と、十三銭の定食のその残飯だ。碁会所の番人の志願者はいくらも有るが、関さんの条件では有り
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