この国に三人も秘書をつれてブラブラしている重役がいるかッてんだ。秘書だったら秘書同志じゃないか。婦人秘書をこッちへ渡しゃいゝじゃないか。独占てえ法はねえや。アン畜生、ヤキモチやいてやがんだ、なア」
「うるせえな。ヤキモチやいてんの、お前じゃないか」
「チェッ。お前は目があっても節孔《ふしあな》同然だよ。半平の奴、ふてえ野郎じゃないか。明日東京へ戻って指令を待て、なんて、尤もらしいことオレに言ってやがるよ。なんとかして、オレをツルちゃんから遠ざけようてえコンタンなんだ。働かすだけ働かしやがって、なめてやがるよ、なア」
「うるせえなア。お前はヤミ屋の仕事に打ちこんで月給もらッてりゃいいんだよ。オレは写真を撮りゃいゝんだ。女の子の一人二人よろしくやるだけの腕がなくッて、ヤミ屋がきいて呆れらア」
「チェッ。見ていやがれ。東京へ帰れッたッて帰るもんかよ。半平の野郎め、ギョッと言わせてくれるから」
「アッハッハ。勝手にしやがれ。しかし、仕事を忘れるな」
年のせいか、坊介は落着いていた。しかし簡単に年のせいでは済まないことを、正宗菊松は肝に銘じてもいたのである。半平や天草次郎の落ちつきは、どうだ。事に当って身命を投げうっている精励ぶりは、どうだ。そのうえ、二人の女を両手に花と、シャク/\たる余裕をも示しているとすれば、一流の奥儀をきわめた達人と云わねばならないのである。隣室でねむる筈の半平は、まだ戻っていないらしい。
半平と才蔵と、女のことでもめるとは見物じゃないか、と正宗菊松はほくそえんだ。決闘でもやらかして、奴ら、自滅するがいゝや。彼は明日の悲しさに胸がつぶれそうだったが、こう思うと、いくらか光明がさしたせいか、熟睡することができたのである。
正宗菊松は十六の年まで寝小便をたれる癖があった。色々の薬をのんだがキキメが見えず、修学旅行などはズッと欠席していたが、いッそ人中へだしたら意地ずくで何とかなるかも知れないと、両親のさとしを受けて、十六の年に悲愴な覚悟をかためて修学旅行にでた。覚悟のほどが効を奏して、それ以来寝小便がとまったのである。
もともと彼は苦労性で、つまらぬことにクヨクヨ悩む反面には、だらしなく安心するというウスバカじみた性分があった。ここ二日間のつもりつもった心労のせいで、彼はダラシなく睡りこけてしまったのである。
言うに言われぬ快感のさなかに、ふと目が覚めて、彼はクラヤミへ突き落された。十六の年から忘れていた寝小便をたれてしまったのである。
なんたる大量であろうか。フトンいっぱいの洪水だ。そして、なんたる悪臭だろうか。それは何年ぶりかで存分に晩酌をとったせいで、尿に臭気がこもっているのである。彼は神様の使者にふんづけられて魂をぬかれたとき、いつも自分一人だけが悲しい思いをしなければならなかった少年の頃を痛切に思いだしていたのである。少年時代への切実な回想とともに、寝小便も十六歳へもどったのかも知れなかった。
起き上ると、サルマタや腹のまわりに溜っていた小便がドッと流れて、フトンの下へあふれ出ようとした。彼はあわてゝシキフをもたげたが、それから先は為《な》す術《すべ》を失い、途方にくれて、クッという声をたてると、手ばなしで泣きだしてしまったのである。
「どうしたの? お父さん」
物音をきゝつけて、半平が襖をあけて顔をだした。事情をさとると、物に動ぜぬ半平も、しばしは茫然たるものであった。
「ふーん」
半平は感心して一唸りしたが、もう気をとり直してニコニコしていた。
「そうかい。お父さん、オネショの癖があったの、言っといてくれりゃ、夜中に起してあげたのに」
彼はちッとも騒がなかった。
「オイ、起きろよ。坊介クンも、才蔵クンも、もう起きる時間だよ。お父さん、お風呂へはいッてらッしゃい。その間に片づけておくからね。ハイ、歯ブラシ。ハイ、タオル。それから、ハイ、石ケンとカミソリと。オフトンの上へユカタもサルマタも脱いどいて行くんだよ。とりかえといてあげるからね」
正宗菊松は一々品物をうけとり、言われた通りハダカになって、ただ、うなだれて、部屋づきの浴室へはいった。
「ワア、臭い。馬みたいに、たれ流したもんじゃないか」
と雲隠才蔵の叫び声がきこえたが、
「よけいなことを言うんじゃないよ。ボクが女中に云ってくるから、キミはサルマタを買ってきなさい」
「よせやい。朝ッパラからサルマタ売ってる店があるもんじゃねえや」
「いけないよ。秘書ともあろうものが、ワガママは許されないよ。ヤミの天才で名をうった雲隠才蔵ともあろうものが、朝の八時にサルマタが買えなくってどうするのさ。宮ノ下でも、小田原でも、どこまででも行って、買って戻ってきたまえ。我々は職務を果しましょうよ。ねえ、そうでしょう」
そこはヌカリのない面々のこと、そうか、仕方がねえ、とつぶやいて、サルマタ買いにでた様子。半平の報せで、女中たちが跡始末にきたが、ブツクサ云わず、笑いもせず、処置をつけているらしく、その裏には半平の手際の妙があるのであろう。
「お父さん、こゝへユカタ置いときますよ。サルマタも、新しいの買ってきました。さすがに、わが社の至宝、才蔵クンは神速なるもんですよ。今度、月給あげてやって下さいな」
食事となっても、正宗菊松はひたすら黙然、顔もあげられない。
「お父さん。元気をだして下さい。ツルちゃん。キミ、お父さんの肩をもんであげなさい」
ツル子がハイと立ち上って、せッせと肩をもんでやる。ツボも心得て、ミゴトなお手並である。快感。思わず夢心地になりかけると、フッと溜息がでて、涙がにじんでしまうのである。
「ボクも、ノブちゃん、肩をもんでもらいたいね」
ハイと云って、ノブ子も半平の肩をもむ。
「アア、いけねえ。フツカヨイだ」
坊介は頭をガクガクふって、
「オイ、才蔵。オレの肩をもめよ。ボンヤリしてたって面白くもなかろう。お前の手でも我慢してやるから、若いうちはコマメにやりなよ」
「よせやい」
「ボンヤリ睨めっこしてるよりも、一方が後へ廻って肩をもむのが時にかなっているッてことが分らないかな。だから、淑女にもてない」
「うるせえな」
午前十一時。時間がきて、一同は自動車にのりこんで、スルスルとマニ教の神殿へ。
白衣の人たちに迎えられて、玄関を上ったところへ、昨日と同じように二列に並んで坐らされる。
やがて、彼方からの鈴の音が近づくと、
「ミソギイ」
と、若い女の一声。白衣の男がサッと二人立って、板戸を両側にひらくと、御幣を捧げた女と、その左右に鈴を頭上に打ちふる二人の女。いずれも白衣に緋の袴である。
サッと御幣を一となぐり、又、一となぐり。身をひるがえしてパッと去る。彼女らの去るを送って板戸の閉じた音に頭をあげると、昨日の神の使いが正面にチャンと坐っているのである。
いきなり、スックと立った。朱をそそいだ鬼の顔、ワナワナと怒り立つ肩。ダダダダと前へ踏みすゝむ気勢に、ガバと伏して、頭上に両手をすり合わせ、
「マニ妙光。マニ妙光」
正宗菊松、寝小便で魂をぬかれたとはいえ、昨日の怖しさ、これを忘れる筈はない。神の使者はダッと踏みとどまると、大きくのけぞって一呼吸、ハッシとかゞむ。
「ガアーッ」
と、神様のイブキをかけた。それから、ダダダ、ダダダ、とひとり八方に荒れ狂う跫音。やがてピュッと何物か切る音とともに神の使者が着《ちゃく》したらしい。
「お立ちイ」
という声がかゝって、みんなが頭をあげた。正宗菊松だけは、そう心易く頭があげられない。
「もう、いゝんだよ、お父さん」
と、今日も半平にさゝやかれて、ようやく頭を上げた。
「正宗は、今日は敬神の念を起しておるな」
と、神の使いが鋭く見すくめて云った。
「ハイ」
正宗菊松は万感胸元につまって、たゞ、たゞ、平伏するのみ。
「実はです。お父さん、非常に感動したもんで、今朝はオネショやっちゃッたんですよ。これがお父さんの悪い病気でしてね。会社の重役やりながら、寝小便をたれているんですよ。子供のオネショと違って、お酒をのむから臭いッたらないでしょう。おまけにバケツ一杯ぶちまけたぐらい垂れ流すでしょう。秘書たちがね、こればッかりはツライッてね。旅先じゃア、お父さんの恥だから、気をつけているんですけど、ゆうべ、ボク、疲れちゃって、夜中に起すのを忘れちゃッたんですよ。だもんで、今朝、やっちゃったんです。神様の御力で、これを治していたゞけると、ボクたち救われるんですけどね。治していたゞけますかしら」
神の使者も眉をよせたようである。けれども、正宗菊松の顔、形を見れば分ることだが、泣かんばかりに悄然とうなだれて、慙愧《ざんき》の念、身も細るほど全身に現れている。半平の奇怪な言葉に、ひとすじの偽りもないことは、明々白々《ありあり》あらわれている。すべてを観察して、神の使者は、うちうなずき、
「長年邪神について、邪念が髄に及んでいるから、正宗のカラダに様々の障碍が宿っているのに不思議はない。マニ妙光様は宇宙の全てゞあるから、この教えにもとづいて魂をミソイだならば、寝小便などは苦もなく治ってしまう。まだマニ妙光様直々のオサトシをうけるわけにはいかぬが、別室で浄めてつかわすから、正宗だけ、ついて参るがよい」
「ボクたちも浄めて下さいな。お父さんと同じようにしてもらわなくッちゃア、あとあと親孝行にサシツカエがあるんですよ。なんてッたって、たゞもう、モーローと平伏ばかりしているでしょう。別室で一人になったりなんかすると、益々あがッちゃって、目も見えず、耳もきこえなくなるんですよ。とても心配で、ほッとかれやしないよ、ねえ」
「アア、ホント。常務が浄まる時にボクたちも浄まッとかないと、なんだ、不敬者だの、汚らわしいのと、うるさいからな」
とフツカヨイの坊介が頭髪を前へたらして、蒼ざめた顔をしかめた。
「ウチの常務は、寝小便をたれた後と、神様の前へでた時だけは、平伏悄然モーローとしているけれども、その他の時はガミガミ口うるさいッたら。ボクたちも一しょに浄まらなくッちゃア、身がもたないよ」
坊介、フツカヨイとはいえ、さすがに芸術家である。胸に秘めたライカに物を云わせたい一念、必死であった。
しかし、神様の使者は厳格であった。
「お前たちは、まだ別室で神事をうけるに至っておらぬ。お前たちが、秘書の役に立たぬにせよ、俗界と神界のことは別の儀である。それすらも、わきまえておらぬ。不敬であるぞ」
ハッタと睨んだ。
「正宗菊松、立て」
声に応じて、立ち上ろうとした。しかし、魂をぬかれたせいか、腰も、足も、フヤラフヤラと力がこもらない。彼は立とうとして、両手をつき、気があせって、ハッ、ハッと病犬のように舌をたらして息をついた。
彼は本当に神様にすがりたかったのである。寝小便も治したかったし、チンピラ大学生どもをギョッと云わせる智恵と勇気をほしかった。ありていに云えば、マニ教を蹴とばし、神様を踏んづける力が欲しかったのである。つまり、万感胸につまって、たゞ、切なく、あせるばかりであった。
彼はようやく立ち上って、よろめいた。オットット。半平、坊介、才蔵、ぬかりなくサッと立って、支えてやる。
「だから、言わないことじゃない。目もくらみ、耳もきこえやしないんだからね。心臓マヒでも起されちゃア、第一、失業問題だからね。ごらんの通りですから、ボクたちも一しょに、至らない者ですが、ついでに浄まらせて下さいな」
「まったくだね。お父さん、会社じゃア相当パリパリしてるんだけど、神様の前じゃア、カラだらしがないねえ。このたよりない様子じゃア、子供として、見棄てちゃ、いられないね。一しょに浄まらしていたゞきたいですねえ。いゝでしょう。たのみます」
神様の使者はつぶさに観察して、正宗菊松のダラシなさ、いさゝか呆れもしたが、けっして狂言のたぐいではないと見た。けれども、神界は厳格なものである。彼は白衣の若者たちを目でさしまねいて、正宗菊松を支え、半平たちから距てさせた。
「たとえ俗界にいかようなツナガリがあっても、霊
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