自分の子供のようなチンピラ共と同行して、この年になっても、やられるのは自分一人であるとは。
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 洟水《はなみず》があふれてシャクリあげた。シャクリあげる声というものは、この年になっても、ガキのころと同じであった。なんたる宿命であるか。恐怖にふるえた。
 神の使者は恭順を見とゞけて、ようやく踏みつけた足を放した。
「神様がお立ちになるぞウ」
 ダダダ、ダダダ、という激しい跫音《あしおと》が部屋の八方に荒れくるったが、それは、一人の男が八方に走り狂って足を踏む音である。それに合わせて、
「マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光」
 という祈りの声がひときわ高くなる。才蔵や半平たちも、それに合わせて、祈り声を高くする。
 ピュッと何かを切った音がした。
「お立ちッ」
 神の使者がバッタリ坐った様子である。祈り声もハタと杜絶えた。正宗菊松は、怖しさに、頭をあげることができなかった。
「お父さん、お父さん」
 半平のさゝやきがきこえる。
「もう、いゝよ。こっちへ来て、お坐り」
 菊松は怖る怖る頭をあげた。一同は顔をあげて坐っている。衆人環視の中で夢からさめたようである。彼は神の使者に両手をつかんでひきずり出されたので、列をはなれて、部屋の中ほどに妙な方角を向いていた。
「お父さん」
 ツル子がツと立って、チリ紙をだして洟をかませた。彼はそれを羞しがる余裕もなかった。ツル子に手をひかれて、自分の席へもどり、敬しく神の使者に一礼した。
 廊下をふむ音が鈴の音にまじって湧き起った。ピタリと戸口でとまると、
「ミソギイ」
 という女の声がきこえた。護衛の若者がハッと立ち、杉戸の左右に立って、同時にサッと戸をひらく。とたんにパッと白衣に朱の袴のミコが三名、神楽《かぐら》のリズムに合わせるような足どりで、踊りこんだ。先頭の一人は御幣をかついでいる。あとの二人は鈴を頭上に打ちふっている。踊る足どりで正宗菊松の前に立ったと思うと、サッと御幣を打ちふった。なぐりつけるような激しさだ。すると左右に立ったミコが、鈴を頭上にリンリンとふる。ヒュッと廻して、又、ひとなぐり。サッと身をひいたと思うと、ツツと急ぎ足、御幣のミコを先頭に、鈴音の余韻のみを残して、今きた戸口へ踊りこみ、忽ち姿が消えてしまった。杉の戸が、左右から、しめられる。
「正宗は何歳になるか」
 神の使者は、しばらく名刺を一枚一枚ながめたのちに、こうきいた。
「ハイ、五十二歳でございます」
「商売は繁昌しているか」
「ハイ。おかげさまで、どうやら繁昌いたしております」
「お父さんは慾が深すぎるんですよ」
 と、半平が横から口をいれた。彼はもう、ふだんのようにニコニコして、一向に神の使者を怖れている風がない。長年交際した人に話しかけるような馴れ馴れしさであった。
「信心深いというよりも、慾のあげくの凝り性なんですよ。ボクら、ずいぶん、いじめられましたよ。ねえ、ツルちゃん、戦争中は、皇大神宮に指圧療法、終戦後は、寝釈迦《ねしゃか》、お助けじいさん、一家ケン族みんな信仰しなきゃア、カンベンしてくんないんですからね。子供のボクらや、秘書のこの三人の人たち、迷惑しますよ。でもねえ、云うことをきかなきゃカンベンしないんだから仕方がないですよ。今度、マニ教の噂をきいて、神示をうかがってくるんだって、どうしても、きかないのです。ボクら、もう、オヤジが言いだしたら仕方がないと諦めていますから、オヤジの信心するものは、なんでも信心するんです。さもなきゃ、お小遣いもくれないもの是非ないですよ」
 落ちつき払ったものである。育ちのよい坊ッちゃんが腹に思っていることをみんなヌケヌケ喋っている気安さであった。彼は悠然と、まだ喋りつゞけた。
「ボクら、若い者でしょう。遊ぶことは考えるけど、信心なんか、ほんとはないのが本当でしょう。でもね、オヤジがこんな風だから、つきあわなきゃ勘当されますよ。ですからね、ボクらは神様にお目にかかって、どんな人だろうなんて、そんなことしか、考えられないですよ。ねえ」
「軽々しく神の御名をよんでは不敬である。凡人が神にお会いできるなぞと考えては不敬千万である」
 神の使者は静かにさとした。眼光は鋭かったが、先刻の凄さはもはや見られない。今度は説教師の様子であった。
「信徒が神様にお目通りできるまでには、何段となく魂の苦行がいるぞ。御直身《ごじきしん》と申して、神様につぐ直《すぐ》の身変りの御方。この御方にお目通りするまでにも、何段となく苦行がいる。お前らはイブキをうけ、ミソギをうけたから、信徒として、許してつかわす。毎日通ううちに、身の清浄が神意にとゞいたら、御直身がお目通りを許して下さるだろう。神様のお目通りなぞは二年三年かなわぬものと思うがよい。今日は立ち帰って、明日出直して参れ。ミソいでつかわすぞ」
「それじゃア、神示は却々《なかなか》いただけないのですか」
 と、半平がきいた。
「ボクのオヤジは商売の神示をうけたいのですよ。いえ、それが本性なんです。神様にお目にかかれなくっても、神示はいたゞけますかしら」
 半平はくすぐったそうに、ニヤ/\した。
「オヤジはね、ガンコだから、信心となると、何月何年でも箱根に泊りこむ意気込みなんですからね。ボクら、それが困るよ、なア。第一、会社だって、困らア。なア、雲隠君。もっとも、キミたちが会社と箱根を往復してりゃ、すむかも知れないけど、ボクはこんな山奥に何ヵ月もいたくないですよ」
「会社の方は、なんとかするよ」
 と、雲隠才蔵がなだめた。
「常務のガンコ信心ときちゃ、会社だって、諦めてるんだからな。箱根なら箱根、一ツ処に長持ちしてくれりゃ、ボクら、かえって仕事がしいいや。間宮さんにノブちゃんにボクと秘書が三人も居るんだもの、会社のレンラクは、わけないよ」
「アア、ほんと、その通り」
 と、間宮坊介が才蔵に相槌を打った。フツカヨイもどうやらさめたらしいが、今度は、ねむたそうであった。
「常務の身の廻りはボクがいるから大丈夫だ。ボクは常務と一緒にノンビリ温泉につかっているから、レンラクはもっぱら若い者がやってくれよ。そのたんびにウイスキーを忘れず運んでくることだよ」
「チェッ。のんびりしてやがら」
 神を怖れざる若者どもである。正宗菊松はハラハラした。今のさッき自分が蹴倒され、踏んづけられて魂をひきぬかれたばかりだというのに、なんたる奴らであろうか。コウーラッ、魂をぬいてくれるぞウッという怒号が尚耳に鳴り、ハラワタにしみているではないか。けれども彼らは平然たるものであった。正宗菊松が蹴倒される寸前に彼らはいち早く伏して拝むことを忘れなかったが、ある危機の時間がすぎると、かくも平然たるものである。神の使者は、もはや彼らを怒らない。いかなる嗅覚によって危機をかぎ当てるのであろうか。正宗菊松は身の至らなさを嗟嘆した。
「正宗はどこの宿に泊っているか」
「ハイ。明暗荘でございます」
 神の使者の声がかゝると、若者たちの分も自分が叱られるように思われて、身の竦む思いがするのであった。彼は一々両手をつき、平伏して返答した。
「正宗の子息と娘は何歳であるか」
「ハイ。エエと、知らぬ顔の、左様でござります、半平は二十五、ツル子は二十一に相成りまする」
「当分、毎日くるがよい。魂をみそいでつかわすぞ」
「ハハッ」
 菊松は平伏した。神のお怒りは解けたらしい。すると半平が、又、口をいれた。
「ほらね。あれだからね。オヤジは信心とくると、理性を忘れて、からだらしがないからねえ。平伏するばッかりなんだよ。毎日おいで、と云われたら、何時ごろ来たらよろしいですか、と訊くのが自然の理知というものだね。オヤジは神様の前へでると、てんで、なってやしないねえ。これで、よく、会社の重役がつとまるもんだよ」
「だからさ。キミがそんなに云っちゃアいけないよ。そこは、ちゃんと秘書というものがついてるのだからさ」
 と、才蔵が、又、なだめておいて、神様の使者に向って尻を立てゝ腰をかゞめた。
「あの、明日からは何時ごろに参りましたら宜しゅうございますか」
 商家の丁稚《でっち》が番頭に伺いを立てるような心易さだが、神様の使者は怒らない。
「朝夕のオツトメには、まだ加わることはできない。朝の十一時ごろ来てみるがよい。場合によっては神膳のお下りをいたゞくことができるから、人数だけの昼食の米をお返しに捧げなければならないぞ」
「ハイ」
 雲隠才蔵はニコニコと手帳をだして書きこむ。エエと、朝の十一時、米持参。まことに心易い様子であるから、神様も拍子ぬけがするのかも知れない。
 こうして、第一日目は成功に終った。したたかに蹴られ踏んづけられた正宗菊松が哀れな思いをしたゞけであった。
 その夜、彼は妻子のことを思いだして、ねむられなかった。彼の妻子は実家へ疎開のまゝ、いまだに転入ができないのである。転入ができたところで、彼の今の給料では生活ができない。彼は晩婚であったから、長男はまだ十九だが、上の学校へもあげられず、女房の実家で畑を耕しているのである。
 行末のことを考えると、心細さが身にしみる。それというのも昨日まではとんと夢にも思い至らなかったことで、大学生という新動物の発見以来のことなのである。まったく謎の動物であった。
 彼らは神様の使者の前でも、心おきなく勝手放題なことを喋りまくっていた。神様をなめているのかと思うと、そうではない。みんな計算の上なのである。一足神前をさがると、彼らはむしろピリリと緊張したようである。神様の前では、オヤジだの常務だのと、まるで彼一人|嬲《なぶ》られ者にされているような有様だった。
 そのくせ、神前をさがると、彼らの態度は一変して、お父さん、常務と、宿の玄関で靴のヒモをといてくれ、部屋へはいると服をぬがせ靴下までぬがせてくれる。常務に対する敬意至らざるなく、温泉につかれば、半平まで、お父さん、背中流しましょうか、などと云う。みじんも彼らの使命を裏切るような隙を見せることがない。そして彼らは、正宗菊松が蹴倒され、踏んづけられて、神様に魂をぬかれた珍劇などには、見たこともないように、一言もふれなかった。たゞ、あたりに人影のなかったとき、半平がふとすり寄ってギュッと菊松の手を握って、
「今日の成功は、キミが蹴られたオカゲだよ。殊勲甲だよ」
 と云った。そして口笛をふきながら、夜の温泉場をひやかしに、姿を消してしまったのである。
 唐突に感謝をこめてギュッと手をにぎり、女性のようにやわらかく笑いかける半平が、又しても、彼は怖しかった。今日はこれでよかったが、ひとたび失敗すれば、容赦なく彼をクビ切り、叩きだしてしまうに相違ない残忍無慚な魂が裏にひそめられているようである。得体の知れぬ青二才に一身をまかして道化の主役を演じさせられている身のつたなさが、やりきれない。然し、嬉々として仕事に没入する彼らの溢るゝ生活力は驚異であった。
「畜生め。どうしてくれたら腹の虫がおさまるのか」
 やにわに飛び起きて、ねているチンピラ共を蹴倒し、踏みつぶして、魂をぬいてやりたいと思った。この世には悲しい思いがあるものである。

   その四 寝小便の巻

 正宗菊松はふと目がさめた。襖《ふすま》を距てた隣室へ誰かゞ戻ってきたのである。酔っ払って、ドタバタと重い跫音がもつれている。
「半平の奴、ひどすぎるじゃないか。なにも女の子を隠しだてすることはないよ。なア、坊介、そうだろう。ツルちゃんが好きなら好きでいゝけどよ、ノブちゃんまで一緒につれだして隠すことはないよ。なア」
「うるせえな。なん百ぺん言ってやがんだい。やくんじゃないよ」
 こう雲隠才蔵をたしなめたのは坊介である。
「チェッ。女房ぐらい、もったって、威張るんじゃねえや。落着いたって、偉いことにならねえや。半平の奴、ツルちゃんと仮の兄妹だなんて、鼻の下をのばしていやがら」
「よさねえかよ。やきもちやきめ」
「チェッ。お前も三十|面《づら》さげて、あさましい野郎じゃないかよ。秘書なんかにされて腹が立たないかッてんだ。ど
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