れている。しかし、笑っているだけだ。
「わからないなア。ここはどこだ? お前は、いつ、来たのだ?」
「アラ、前に話してあげたじゃありませんか。それに、おめざめのたびに、毎日、たのしく話し合っていたじゃありませんか。覚えてらッしゃらないのですか」
「全然、覚えがないね。ええと、そうだ。わかった!」
 菊松は膝をたたいて叫んだ。
「ここは箱根だ! 箱根の底倉だ! しかし、まてよ。あの旅館は、たしか、明暗荘と云ったな。あそこには、ベッドはなかったぞ。ああ、分った。ボクは病気をしたのだね。ここは箱根の病院だ。昨日まで、箱根にいたのだから。しかしもっと眠ったかな。二日ぐらい眠ったのかね」
「まア本当におめざめね、そして、昨日までのことは、御存知ないのね」
 彼の妻は彼の膝に泣きふしたが、顔をあげて涙を拭うと、喜悦にかがやいていた。
「あなたは本当に全快なさったわ。先生の仰有った通りだわ。本当に眠りからさめた時はキレイに全快していますッて。あなたは一ヵ月の余も眠りつゞけていらしたのよ」
「そんな、バカな」
「イイエ、本当です。病院の先生が、薬で眠らせて下さったのです。持続睡眠療法と云いましてね。ズルフォナールという強い催眠薬を毎日ドッサリのませて、昏々とねむらせて下さったのです。その期間に、食事もとるし、便もとり、時には話も交すことがあっても、夢うつつで記憶にないということを先生も仰有ってましたが、時々あたりまえに話をなさるので、マサカと思っていました。しばらく前に服薬を中止して、葡萄糖の注射で眠りをさましていましたから、今日、明日ごろ、正気にかえると先生のお話でしたが、本当に全快なさったのよ」
「信じられん。ここは箱根だろう」
「イイエ。東京です」
「嘘だろう。ちょッと、今日の新聞を見せたまえ」
 妻の手から新聞をうけとると、彼はほかを見ずに、日附を見た。
 ああ、たしかに一ヵ月半もすぎている!
「どうも、わからん。一ヵ月半。いや、二ヵ月ちかくも」
「そうですよ。その間中、ねてらしたのよ。そして全快なさったのよ」
「全快って、いったい、何が?」
「今はおききにならないで。そんなこと、なんでもありませんのよ」
「しかし、お前たちは、どうして、ここに来たのだ。そして、どこに泊っているのだ。お金は、どうしている?」
 彼の妻は、又、泣いた。
「親切に、報らせて、呼びよせて下さった方は、この部屋にいらっしゃいます。あなたは、もう、貧乏ではありません。巷談社の重役です。莫大な月給をいただいています。私がいただいて貯金してある賞与だけでも、三十何万円とあります」
「巷談社?」
「ええ」
「重役だって? ボクが? あれは一時のカラクリだ。そして、あれは、天草商事だ。アア、みんな思いだしたぞ。ボクはマニ教の神殿へ監禁された……」
「そうですよ。天草商事はつぶれました。そして、マニ教から、あなたを救いだして下さった方が、新しい会社を起して、それが巷談社です。ツル子さん、いらして」
 すすみでたのはツル子である。ちょうど見舞いに来ていたのだ。ツル子はニッコリ笑ったが、顔がほてって、あかかった。
「お父さん! ごめんなさい。そうお呼びしましたわね。三日間箱根で」
 菊松は目をみはった。ああ、覚えている。はじめて見た時は、箱根へでかける朝だ。物も云わず、チョコレートをつめかえていた。宿屋では、彼にモーニングをきせてくれた。モーニングをぬぐ時はドテラをきせてくれるために、うしろに立っていた。そして、お父さんとよんだ。
 だが、憎むべき天草商事の一味であることに変りはない。脱出に失敗して、ただ一人、とり押えられた悲しさを思いだす。忘れられない悲しさだった。そのとき、あの連中は、この娘も、後をも見ずに、彼を捨て、逃げてしまった。恨みの後姿が、目にしみているのだ。
 ツル子は見つめられて、泣きそうになってしまった。
「すみませんでした。お恨みをうけるのが、当然ですわ。私たち、自分の功名にあせって、一人のお方に悲しい思いをかけることを忘れていました。それが地獄の責苦よりも悲しい苦痛だということを……」
「ツル子さん。よして! あなたは天使です。どうして、あなたが、悪いものですか。逃げおくれた正宗の運が悪るかったのです。もう、こんな話は、よしましょうね。お父さんが退院して、元気が恢復してから、笑い話に思い出を語り合う時がきますわ。それまでは、何を思いだしても、いけませんのよ。あなた、ツル子さんに、お礼、仰有ってちょうだい。私たちの一家を助けて下さったのです。あなたを救いだして、重役にして下さったのも、このお嬢さんですよ」
 菊松には何が何やらワケが分らなかった。しかし、現実を素直に受けいれるだけの、妙にスガスガしい落付きがあった。戦争以来、見失っていたスガスガしい気持だ。たしかに、なにかが、全快したに相違ない。
「そうですか。どうも、ボクには、よく分らないが、巷談社の社長の方は、天草商事の方ですかな」
「イイエ。サルトル・サスケさん」
「サルトル・サスケ? 雲隠才蔵とちがいますか」
「イイエ。天草商事に関係のない方です」
 菊松の記憶にはないワケだ。サルトルに会った時は、もう狂って、マニ教の座敷牢にいたのだから。
「その方が、どうしてボクを重役にして下さったのでしょう?」
 ツル子は真ッ赤になってうつむいたが、ようやく、気をとり直した。
「サルトルさんは、私のフィアンセです」
「ツル子さんも、巷談社の重役ですのよ。あなたが専務。こちらが常務。ワケは、いずれ、ゆっくり話しますから、一度アリガトウ、と仰有い。今日があなたの新しい人生よ。そして、すこし、休みましょう。全快はしても、催眠薬の影響で、身体が衰弱しているから、それが恢復するまでに、あと一ヵ月ぐらい静養しなければならないのよ」
「そうか。そうか。心配をかけて、すまなかった。そう云えばわかったような気がする。ボクが愚かで、意気地なしだから、いろいろ御迷惑をかけお世話になったに、きまっている。たしかに、そうにちがいない」
「いいえ、そんな」
「イヤ、ツル子さん。わかっています。あなたは、たしかに、心の正しいお方だ。お世話になって、すみませんでした」
 厚く礼をのべると、菊松は、又、昏々としばらく眠った。
 それから、一ヵ月、菊松は退院した。
 又、一ヵ月。菊松は転地静養から、まったく元気をとりもどして、はれて出社した。
 社長のサルトルは時々病院へ見舞ってくれたから、とっくに顔ナジミだ。ところが意外な人物が、ニヤニヤしながら、近づいてきた。
「正宗さん、ボク、覚えてますか」
 どうして、その顔を忘れよう。白河半平であった。
 半平は人の思いは気にかけない。いつもただ、ニコニコ主義である。
「アッハッハ。ボク、白河半平。ね。ホラ、知らぬ頼の半兵衛ですよ。天草商事がつぶれちゃったんで、サルトルさんに拾ってもらいましたよ。とにかく、腕に覚えがありますからね。相変らず、編輯長ですよ。今度は重役じゃ、ありませんけどね。アハハハ。しかし、ボクの行く道たるや、恨みなく、怒りなし。常に、ただ、ニコヤカ、和合をモットーとしています。もっとも、ボクが人に恨まれ、人に怒られる不行跡は数々犯していますがね。アハハ。しかし、我、関せず。故に、わが天地、恨みなく、怒りなし。よろしく、たのみます。ねえ、専務さん。アハハ。今度は本当に専務とよばなきゃ、いけなくなっちゃったね。曾《かつ》ては、妹とよびたりし乙女は、社長の愛妻であり、又、重役であり、しかれども、恨みも怒りも一片だにありませんです。すべて、これ、知らぬ顔の半兵衛ですよ。アッハッハ」
 彼は手をさしだして、菊松の握手をもとめた。まことに他意なく、ニコヤカ、アッパレな武者ぶりであった。
 菊松も、こだわらず、半平の手を握りかえした。スガスガしい愛情だ。彼も亦、恨みは忘れていた。ただ、新しい人生、そしてわが社、わが社員を愛する思いでイッパイだった。
 この風景を眺め、仕事の手を休め、ニコヤカにモミ手して、慶祝の意を表して悦に入っているのがサルトル社長だ。それを見て、口を抑えて、ふきだすのをこらえているのが、愛妻重役であった。まずはメデタシ。



底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部 第一巻第八号〜第二巻第三号」
   1949(昭和24)年8月1日発行〜1950(昭和25)年3月1日発行
初出:「講談倶楽部 第一巻第八号〜第二巻第三号」
   1949(昭和24)年8月1日発行〜1950(昭和25)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:狩野宏樹
2009年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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