、キミ、何十年かぶったの。帽子から、サルマタから、靴。何から何までじゃないか」
「アッハッハ。正宗クン。キミは幸運児だよ。入社みやげに、身の廻り一揃い、たゞで買ってもらえるなんてね。運がいゝや」
 と、半平は天草次郎から札束をうけとると、品物を買わせに、女の子を使いにだした。
 屈辱、忿怒《ふんぬ》。それは身もだえるばかりであったが、はねかえす力はなかった。天草次郎の視線がジッと自分にそそがれると、恐怖にかられて、背筋が水を浴びたようになる。彼は観念の目をとじた。かようなテンマツによって、天草書房編輯員という彼の新職業がはじまったのである。
 その日までは、大学生というものを、ナンキン豆のアルバイトをやり、タバコをくわえてダンスホールへ通い、太平楽な奴らだと思っていた。これも戦争のせい、同類が戦野に血を流し、未来ある生命を無為に祖国にさゝげた仕返しのようなものだ、と、むしろ同情をよせていた。彼も歴史の先生である。戦乱破壊のあとに何が起るかということを、過去にてらして正しく判断するに誤る筈はなかったのである。
 だが、大学生というものが、このような新動物であろうとは! 彼は天草商事へ就職するのが怖しかった。
 天草次郎の見るからにチャチなチンピラのくせに残忍無慙にくいこんでくる視線が怖い。白河半平の妙になれなれしく、女性のように柔和な笑顔も気にかゝる謎であった。これをマトモにうけとめるには必死の努力がいるのであった。
「ウヌ。畜生め! オレだって、やってみせるぞ」
 と、彼がこう呻いたのは、そもそも就職の当日からだ。怒りと恐怖のカクテルの胴ぶるいである。自分が悪魔になったような覚悟がこもっているのである。すくなくとも、魔力なくして為しとげられぬ仕事である。然し、その瞬間における仕事とは、編輯の仕事の意味ではなかったのである。
 過去の物みなが没落する。老人は枕を並べて没落する。然し、オレだけが、さからってみせる。負けてたまるか、という意味なのである。けだし悲愴とは、このことであろう。
 厳然たる歴史にさからってみせてやる、というのであるから、容易ならぬ話である。
 思うに、この就職の瞬間に於ける胴ぶるいと覚悟の中には、自らも野武士となって一戦又再戦を辞せず、悪鬼妖怪となっても勝たざるべからず、大学生とは倶《とも》に天をいたゞかず、というほどの意味がこもっていたのかも知れなかった。然し、勝つべきようには思われない。胴ぶるいなどというものは、それが武者ぶるいであるにしても、ちょッと哀れなものである。彼の胸の思いは切なかった。

   その二 白河半平深謀遠慮のこと

 翌日新装に身をかためて出社すると、ほかの部屋にはまだ人影がなく、書房の編輯室にだけ、白河半平が二人の女の子を指揮して、お弁当や、オミヤゲの包みをつくらせている。よほど早くから来ていたらしい。勤勉なものである。
「コレ、正宗クンの名刺だよ。天草商事常務取締役とね。天草物産、天草石炭商事、天草製材、天草ペニシリン、とね。賑やかな名刺だね。アハハ。旅行中だけ通用の名刺だから、ちょッと悲しいね。でもさ、今に追い追い月給も昇《あが》るさ」
 と、半平は慰めて、それから、二人の女の子を紹介した。
「こちらは近藤ツル子さん、こちらが、平山ノブ子さん。ところで、この旅行中は、近藤クンは正宗クンの娘、正宗ツル子二十一歳だから、忘れちゃいけないよ。平山クンは女秘書二十四歳。それからボクが正宗クンの息子半平二十五だからね。この会社を一足でた時から、そうなんだよ。マニ教をあざむくには、遠大な構想が必要なんだ。正宗クン、見てらッしゃい。これがマニ教へ献納する品々で、いゝかい、天草物産バターと書いてあるけど、中味は大島バターをつめかえたのさ。ウチのバターはマーガリンだからね。醤油も中味はキッコーマン。ウチのはサナギをつぶしたゲテモノだからね」
 と、一々説明した。天草物産ハム、天草物産製菓部カステラ、天草物産ツクダニ等々とある。このほかに箱根から清酒一樽と米一俵を取り揃える手筈もできている由であった。
 近藤ツル子、イヤ、正宗ツル子二十一歳は器用な手附で、味の素を天草物産の袋につめかえて、それでツメカエの仕事が万事終了すると、アーすんだ、と背延びをしてから、正宗菊松をジッと見て、
「私、ツル子よ。どうぞ、よろしく」
 平山ノブ子はセッセと荷仕度にかゝっていて、紹介をうけても、ちょッと上眼をあげたゞけ、挨拶ぬきに多忙である。我々日本人は戦争このかた汽車の切符売場などで女の売子にケンツクをくわされるのは馴れているが、紹介されてもジロリと上眼をあげただけとは、人格を傷けること甚しい。
 けれども正宗菊松は、立腹を忘れて妙技に酔った。ツル子やノブ子の働きざまのカイガイシサに酔ったのである。ビジネス・オン
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